❑ここに一枚の写真がある。



私の生まれた頃の写真である。


1960年代。

■中央右が私の幼少期。


❏さすがに当時の記憶は無い。

現在。
テレビと共に現在に至った感じでもある。

テレビ東京系『開運何でも鑑定団』に出演した時。









こうして良く見ると私の父は写真に写らず、中央に白黒テレビがある。



今考えると私の父、母、兄、姉の様な存在がテレビの様な気がするのだ。


何故なら、いつからテレビを観るようになった記憶は無い。


恐らく私世代の人は同じでは無いかと思う。


生前の坂口とテレビの話しは本当に良くした。






彼は私より二回り上、戦時下の中で生まれ食うか食われるかの話しを良くしたからだ。






□1945年3月には東京大空襲。
その後原爆投下を経て終戦。
戦争の記憶が幼少期に残ると語っていた。




□その後の回復期。

テレビより映画館で映画を観る時代。




家に帰ってもラジオしか無い。


そもそも家庭にテレビの無い子供時代が普通と言っていた。

彼の子供時代はラジオが家庭の中心であり、映画は高嶺の花と言っていた。


❑左より坂口祐三郎さんほぼ同期の松方弘樹さん右は直接先輩の里見浩太朗さん。



その私が生まれた頃はすでに映画スターの旗手のスターとして銀幕で活躍していたと言う。


❑デビュー作品『新諸国物語』主演里見浩太朗。
ジャケットの右端に登場。
当時の名前は牧口徹。





❏坂口祐三郎のクレジットである。












しかしテレビの普及で映画業界は押され彼もテレビに移行する。


数々の『映画作品』から『テレビ映画』へ舵を切る。


私が三才の頃、昭和42年。


彼の代表作『赤影』の放送がカラーテレビで放送される。






私自身、赤影の本放送は記憶に無く、後に幼稚園ホールで鑑賞したテレビ版のダイジェストの作品と再放送の何れかの中で観た記憶が混在している。


幼稚園ホールで上映のダイジェスト版は他にも、ディズニーの『シンデレラ』『眠れる森の美女』等もあった。





当時、友達と赤影の話題が出た頃、『本物の忍者』の世界をテレビが映し出し、その世界の一員の気分だった事も良く覚えている。




テレビに映る赤影の活躍に夢中で観ている子供時代。



ハラハラドキドキの連続で友達と声を上げて赤影!と叫んでいたと思う。


一方の坂口は赤影の成功を願い、自身の仮面で視界が遮られ苦しい中、カメラの向こうにいる視聴者。


つまり私の様な人間に向けて『満身創痍の赤影』を演じ続けたのだ。


思えば、世代間のある私と坂口が馬が合い、意気投合したのは、テレビと言う世代間を結ぶメディアが存在し夢中になった赤影を彼が演じたからと思う。





❑以前、NHKのブラタモリで放送した赤影。
坂口祐三郎の赤影は最早、忍者の代名詞である。



❑私自身数多くのテレビ出演で彼と共演した中でもっとも喜んだ番組がある。
日本テレビのワイドショーで人気を博したヨネスケさんレポーターの『となりの晩御飯』である。
夏休みスペシャルで予算を組み自宅迄ヨネスケさんが彼の自宅に足を運び終始ご機嫌であった。
リラックスした番組で幼少期から憧れのヒーローと共演である。

多くのファン代表の気持ちで出演を快諾した思い出も懐かしい。



⭐きっとこの記事を読んでる人も同じ想いと思う。


おそらく多くの人の心にある大事な想いの中に坂口の赤影が生きていて世代間の溝を埋め続けている。


そんな気がする。



❑2023年3月、庵野秀明さんの『シン・仮面ライダー』が公開された。


このシン・仮面ライダーの原点は赤影の成功を受けた平山亨プロデューサーによる制作である。


当時、赤影はカラーテレビのプロモーション予算が獲得出来、映画規模のテレビ映画で大成功したものの、単年度予算で赤字になる。


しかし再放送のリピートが続き番組の知名度は再上昇しテレビから映画へと駆け上る。


ところがテレビ局も予算編成を組み直し、仮面ライダーの企画の頃には最初から予算不足と嘆いていたと平山亨さん自身が語っていた。


赤影の脚本家、伊上勝さんと共に自身が好きな江戸川乱歩の少年探偵団的描写を目指し仮面ライダーは制作するも藤岡さんの事故も重なり、ギリギリのタイミングでライダー2号と商品化が重なり制作費回収の目処が立ったと言う。


私世代の先輩、庵野秀明さんが織りなす『シン・仮面ライダー』にも赤影、仮面ライダー等伝説のプロデューサー平山亨さんのスピリッツが盛り込まれた映画である。








⭐私は今、赤影の坂口祐三郎の生きざまを語り継ぐ語り部としても作家と合わせて活動している。