活動写真創成期物語 再び The Beginning of Motion Pictures #1 | 日本と芸能事が大好きな Ameyuje のブログ

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米合衆国領土グアム島と仏領ポリネシアのタヒチ島とボラボラ島しか訪れた他国無し。比較対象が少ないのに「僕に一番合うのは日本」と思う。反日国に侮辱されても毅然とした態度をとらない現在の母国には「いやんなっちゃうな~」と立腹するけど、やっぱり日本が大好き。

昨年TOHOシネマズ西宮で鑑賞した べネディクト・カンバーバッチ Benedict Cumberbatch がトマス・アルバ・エジソンを演じた「エジソンズ・ゲーム」。

 

 え?エジソンの試合?なんのこと? ・・・と最初に邦題を観たときには思いました。

 

 そのあとで原題が「The Current War 」だと分かったときには、 現代の戦争、みたいな感じなんだろうか? とも思いました。

 

 時事問題だとか今日の話題みたいなときには current topics  なんて使いますしね。 Weblio辞書 で current だけ確認すると、主な意味として 『今の、現在の、現在通用している、現行の、通している、行している』 等々が表示されました。

 

 カレントという英語は、 electric current とすると電流を意味するようになるので、 これって 現代の戦争と電流戦争 、 直流押しのエジソン 対 交流押しのテスラ(当初バックにはウェスティングハウスの支援) という 両方の意味を兼ねたタイトルなんだろうなぁと思った次第です。

 

 

 さて、私はトマス・アルバ・エジソンさんをエライおひとだと尊敬はするのですが、好きか嫌いかでいうと嫌いな人です。 

 

 私の好きな映画を、エジソンさんは自分の利益のために独占しようとしたからなんですけどね。 子供の頃はちびまる子ちゃんみたいに「エジソンは偉い人 そんなの常識~♪」と思ってました。

 

 でもエジソンの栄光の前には、特定の分野において彼よりも「汗」を流した「けったいな人々」が居たことを大人になって知りました。その一人がマイブリッジでした。 

 

 以下、もともとはその「イェドワード・マイブリッジ Eadweard Muybridge (以下エドワードとWikiに倣い記します)」という 偉大だけど変わり者のおっさんのことに興味を持ってネットのあちらこちら検索して集めたことを1999年の8月から10月にかけて3つの文章にして自分で立てたサーバのホームページに掲載していた文章がありますので、それを転記してみます。

 

 今なら全文 Wikipedia だけで作れる文章ですが、 当時はWikipediaまでは無かったので、あちらこちらネットサーフィン(死語ですね…)して結構集めるのに時間がかかりましたです、はい。

 

★ ★ ★

 

『 活動写真創成期物語 The Beginning of Motion Pictures #1』


 映画はエジソン(Thomas Alva Edison:1847~1931)の数多い発明の中のひとつ…といわれます。
 確かに、蓄音機を発明している頃から彼の頭の中には「次は映像機器を!」というアイデアがあり、声高にマスコミにそのアイデアを公表しておりますし、キネトスコープ(Kinetoscope:1893)を公開してから後の「商業的映画産業」発展への功績も大きいと思います。

 でも、彼と同時期に「映像機器」に取り組んでいた野心家達は欧米に沢山いましたし、なによりもフランスの科学者や発明家達のアイデアと技術は素晴らしいものでした。


 映像機器におけるエジソン独自の発明とは結局のところフィルムのパーフォレイション(穿孔)くらいだと思われるのですが、結局、物量作戦と宣伝のうまさでエジソンが特に目立ってしまったような感じもします。

 

 このページでは、チャップリンの誕生した19世紀後半において「写真を動かす技術に取り組んだ人達」の熱気みたいなものを、(非常に簡単ではありますが)紹介したいと思います。 

スライドから動画へ
 動画のアイデアは二千年も前にありました、しかし、1839年に写真機が発明されて以降の、質の高い映像を動かすということに関して言えば、やはり19世紀後半からが本当の意味での動画、映像機器の時代といえるでしょう。 

 その黎明期には、手描きや或いは写真のガラススライドを映写機に挿入して像を映し出す「魔法のランタン Magic Lantern」や「スライド映写機」とよばれた機器が活躍しました。
 

 同時に観賞できる人の数は少ないものでしたが、学校や劇場、或いは家庭内で皆がスライド・ショウを楽しめました。 熟練した映写技師にかかると、まるでスクリーンのイメージが動くようにさえ見えたといいます。

 


(上の写真は米国スミソニアン博物館にある "Gloria" という名で知られた Magic Lantern (映写機)である。独の Ernst Planck が開発しました) 
 

 また、後に「酸・水素バーナー」のライムライトが登場することにより、光源の強度はより大きなイメージを映し出せるものとなりました。

 映画技術やその機器の源流をたどれば、それは19世紀半ばの科学者達の「ある要求」から発しているのがわかります。


 彼らは物体の運動を支配し、時間を制御できる研究用具を開発する必要に駆られていました。
 

 ここに「動物の動きをスムースに撮影記録する」というアイデアを産みだし、そのアイデアの実現に向けての大仕事を行った二人の人物がいます。

 その一人は、フランス人科学者エチエンヌ・ジュール・マレー(Étienne-Jules Marey:1830-3-5~1904-5-15)です。
 

 1867年にコレージュ・ド・フランスの自然科学教授に任命された彼は、動物が運動するときの「体の各器官の機能を図式的に記録する」ことで、ダーウィンの進化論を証明しようと試みていました。

 

もう一人は英国生まれのアメリカ人写真家エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge:1830~1904)です。

 

彼は最初、元カリフォルニア州知事のリーランド・スタンフォード(Leland Stanford)に雇われました。彼に与えられた使命は「走る馬の4本の足がすべて地面から離れているかどうかを証明する」ことでした。

これはもともとスタンフォードが馬の走り方についての賭をしていて、その証明の為にマイブリッジが雇われたというふざけたことが発端になってるのですが…。
 

 1872年、最初の撮影の試みは失敗し、マイブリッジはスタンフォードに解雇されました。
 

 しかし1877年、マイブリッジは再びスタンフォードに雇用され、再挑戦した「走る馬の撮影」で「その4本の脚が走るときには地面を離れる」ことの証明を成功させたのです。 成功の鍵は、「電磁シャッターを装備したカメラ」を12台並べ、シャッタースイッチとなる「電線を配置した特殊な競争路」を造って挑んだところにありました。

 マレーをはじめとするフランスの科学者達は、その功績を賞賛しました。しかしアメリカ本国においては、主に芸術家達に嘲笑の対象にされることが多かったそうです。
 

 そして1879年、マレーから「撮影技術についてのある提案」を受けたマイブリッジは、カメラの台数を前回の12台から倍の24台にして撮影を行い、さらに写真群をガラスプレートに配置した回転円板から映像を映しだす「ズープラキシスコープ( Zoopraxiscope )」を考案しました。 

  
 

 その後、1881年、1982年とマイブリッジは欧州を歴訪し、彼の新考案の機器をもって科学者達を興奮させ、パリではマレーと面会することになります。しかしマレーはこの時、マイブリッジの考案した機器で「飛ぶ鳥」を撮影させた結果、それが自分の求める「科学的分析に耐えうる精確さ」を得るには未熟な機器であることを確認するにとどまりました。
 

 なぜなら、マレーはこの10年近く前、1873年に自国の天文学者ピエール・ジャンサンが開発した「リヴォルバー式カメラ」が金星の運動を撮影した時すでに、複数のカメラを使用するのではなく、1本のレンズを通して精緻な間隔での高速撮影を可能にする「写真銃」の如きものが自分には必要だと感じていたのです。

 マレーの頭脳の中に浮かんだ「飛ぶ鳥」をも撮影できる「写真銃」のアイデアは、とうとう現実化の方向に進みました。この1882年に彼が完成させた「写真銃」は、1枚の乾板に1/720秒の露出で「秒あたり12コマの撮影が可能」という高性能なものでした。このマレーの「写真銃」こそが「 Motion Picture 撮影カメラの起源」といえるでしょう。 
 

 
 この後10年間にマレーがやったことは、コマ数を増やすこと、大型の撮影機の可動性を高めること、透明フィルムの導入、長尺のフィルムの使用による撮影時間の延長など色々ありますが、とうとう1892年には循環するベルトにセルロイド・フィルムを用いた最初のプロジェクター(映写機)を開発することになります。

 そしてこのようなマレーの業績から3年を経た1895年、ついにリュミエール兄弟( Louis (1867-1948) et Auguste (1862-1954) Lumière)が十分観賞に堪えうるレベルの大スクリーン用映写機のシネマトグラフ(Le Cinématographe)を完成させるのです。

 


 1895年の12月28日、グラン・カフェにおいて上映されたのは、ルイ・リュミエールがキャメラマンとなって撮影したリヨンのモンプレジール地区にある自分たちの工場の従業員たちの姿でした。
 

 また、その他の作品も、どちらかといえば日常の風景を題材にしたものが多く、映画の初期には工場や、馬車や、鉄道機関車といった日常生活における驚異的な素材が撮影対象としては好まれたようです。 
 
★参考サイト★
(1)The Bill Douglas Cinema Museum

   Kids Zone / From Still Photographs to Moving Pictures

(2)Eadweard Muybridge Collections
   The Father of the Motion Picture

 

Original Note 1999-08-02 by Ameyuje

 

 

もうネタ切れと時間なし状態が続いているので、 やけっぱちの再再掲載です。ごめんなさい。

 

 

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