本日は悠仁親王殿下のお誕生日というおめでたい日ですが、昭和天皇のあるエピソードで知られる日でもあります。

 

 

戦争突入前の御前会議で、昭和天皇が明治天皇が日露戦争時に詠んだ御製を引いて決意を示されたということは昭和史に必ず登場しますが、その御前会議が行われたのが、昭和16年9月6日(1941年)のことでした。

 

明治天皇が詠まれたのは明治37年、つまり日露戦争中に詠まれた歌です。「よもの海」とは、漢字で書くと「四方(よも)の海」となります。つまり「よも」とは「四方(しほう)」のことを意味しますから、「世界中の海」を意味します。

 

よもの海みなはらからと思ふ世に 

など波風のたちさわぐらむ


このことは、私も色んな書物で読んでおり知っていました。そして昭和天皇実録にもこれが書かれています。

 

ところが、当時この御前会議に出席していた人が、この歌が替え歌であったと記録していたと『昭和天皇七つの謎』に書かれています。

 

 

当時の総理大臣近衛文麿の手記『平和への努力』はこう書かれています。

 

然るに、陛下は突如発言あらせられ―御懐中より明治天皇の御製

 

四方の海みな同胞(はらから)と思ふ世に 

などあだ波の立ちさわぐらむ

 

を記したる紙片を御取出しになって之を御読み上げになり、「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと務めて居るものである」と仰せられた。

 

とその場の情景を書き残し、満座は粛然として声もなかった、と

 

つまり、昭和天皇は、歌の中の「波風」を「あだ波」と読み替えているのです。

 

当時、他にもこれを記録した人がいないか?

 

非出席者ながら昭和天皇から会議の概略を聞かされていた木戸幸一の「木戸幸一日記」にはこの御前会議の説明を受けた模様が書かれていましたが、そこには「・・・明治天皇の御製『四方の海』の御歌を御引用に相成り・・・」とあり、歌そのものは書かれていませんでした。昭和天皇は、実際木戸幸一に歌そのものまでの説明をされなかったのかもしれません。

 

しかし、もう一人同じく「あだ波」と記録した人がいました。

 

杉山参謀総長です。これは参謀本部へ戻った杉山が直ちに語って聞かせた言葉を有松大佐が筆記したメモです。

 

九月六日

御前会議席上

原議長の質問に対し及川海軍大臣の答弁あり。その後

御上 私から、こと重大だから両統帥部長に質問する

・・・略・・・

私は毎日明治天皇御製の

四方の海皆同胞と思ふ代*に などあだ波の立騒ぐらむ

を拝誦して居る。どうか

*原文のまま

 

御前会議出席者の内、内閣の総責任者、近衛文麿と統帥部の最高責任者、杉山参謀総長が、ともに揃って「あだ波」と聞き、記していたのです。

 

そしてこの他に、駐英大使であった重光葵が11月19日に近衛文麿と面会して御前会議の模様を聞いたことを記しており「重光葵手記」に残されています。

 

・・・その後、陛下より御発言あり、右原枢密院議長の質問は肯綮(こうけい)に当り居る、との御諚(天皇の言葉)ありたる後、明治天皇の御製を引用あそばされ、

よもの海みなはらからと思ふ世に、なぞあら波の立ち騒ぐらむ

の大御歌を唱せられ、右はすなわち陛下の御意なることを述べさせ給へり

 

ここでは近衛の言葉を聞き間違えたのかどうかは不明ですが、「あだ波」が「あら波」となっていましたが、音が近いのでこの程度の聞き間違いはあるでしょう。しかし「波風」と聞いたのを「あら波」とは聞き違えません。「など」も「なぞ」となっており、単純な聞き間違いか誤記と考えられます。つまり、当時、「あだ波」と記した人が3人いたわけです。

 

明治天皇崩御後、「明治天皇御製」の編纂委員に任命された佐々木信綱は、昭和16年刊行の「明治天皇御集謹解」でよもの海の注解を以下のようにしています。

 

大御心は世界の平和を希(ねが)ひ給へるに、他国より道に違へることどもの出で来て、国際間に事あるを歎かせ給へるなり。戦争中にしてこの御製を拝す。

 

「なみ風」と「あだ波」では明らかに一首の意味が違います。「あだ波」には二通りの解釈があり、一つは「徒波」と書く。表向きの意味はいたずらに立ち騒ぐ波。しばしば、変わりやすい男女の心のたとえなどとして読まれる。そしてもう一つの解釈は漢字にすれば「敵波」か「仇波」と書くもの。

 

そして明治天皇の御製にこの「あだ波」が使用された歌が二首ありますが両方とも敵を指す歌なのです。

 

あた波をふせぎし人はみなと川 神となりてぞ世を守るらむ

(楠木正成について詠まれた歌。湊川は正成戦死の場所)

 

あた波をしづめつくして年も今 くれの湊にかへる船かな

(日露戦争時の我が国の船の帰港の歌)

 

 

昭和天皇が単なる替え歌をこのような席で詠むはずもなく、紙片に誤記してくることもありえません。そこに重大な聖慮が歌の奥に潜んでいると思うのが普通であると『昭和天皇七つの謎』の著者加藤康男氏は書かれています。

 

つまり、昭和天皇は「よもの海」を詠まれたことで、敵である米英蘭を鎮める意味をこの歌に潜ませたのではないか?

 

敵が騒いで海が荒れ誠に困ったものだ、と替え歌で本心を婉曲に表現して見せた。つまりこの歌の趣旨は「平和を願うものの、敵のせいで四海が荒れて困ったものだ」と解釈すべきではないのか。

 

現在この歌により、昭和天皇が明治天皇の御製に託して戦争を望まなかった平和主義者であったという解釈がされるようになっていますが、天皇は御前会議上、この戦争を始めるのは本意ではないものの、事ここにいたっては「あだ波」に対峙せざるを得ないとの覚悟を替え歌に託し訴えたのではないか。

 

ただし、だからといって昭和天皇が好戦的であったとか戦争を望んでいたということではなく、昭和天皇が平和を強く望んでいたのは間違いないことですが、昭和16年9月の時点で天皇はただたんに戦争反対を唱えていただけでは我が国の現状は立ち行かないと判断したのではないか。

 

国難の焦燥感を巧妙に訴えるため替え歌という秘策をもって覚悟の広がりを示した。それが国策決定には踏み込めない立憲君主制の中で天皇ができるぎりぎりの選択であったのだと。

 

天皇が発する勅語というものは下僚が書いた文書を読み上げるだけで、必ずしも天皇の心のうちまで反映されているとは限らない。しかし唯一和歌を詠むことは天皇の気持ちを代弁するのに役立つものでした。和歌に心の内を密かに鋭く伝える文化、伝統があります。

 

「あだ波」と歌った隠喩にこそ巧妙に天皇の気持ちが託されていたのです。

 

御前会議で明治天皇の御製をそっくり読み上げたと早合点した出席者は「御上は和平を望んでおられるぞ」と慌てふためいた、としばしば伝えられてきた。東条英機陸軍大臣や武藤章陸軍省軍務局長がその代表格とされますが、天皇からすればそれで所期の目的は達せらました。血気に逸れと歌ったのではない。たおやかに豊かな心の広さをもって、天皇がアメリカの出方を牽制したところにこの歌の意義がある。その決意をこめて「あだ波(敵)」に心せよ、とクギを刺したのだ。

 

侮辱を受けたら戦いも辞せず、という気概を持つ国家の形を示したかったのが9月6日の御前会議だったのではないのか。

 

戦争より平和の方がいいのは万民にわかりやすくその通り、平和の方がいいに決まっています。しかし平和であることと平和主義は別物なのです。よくいわれる平和主義とは何もしないことです。

 

戦前の外交がうまかったとはいえませんが、歴史的に見れば「弱腰外交」を行っている国はことごとく亡びるまで攻勢をかけられますから、現在のよくある外国目線、自虐史観で全てを否定するのも間違っています。昭和天皇が「よもの海」で思召されただろうことや開戦の詔勅にある、当時の先人たちの想いを共有すべきなのは、なんといってもそのおかげで今を享受している私たちではないかと思うのです。

 

卑怯なふるまいだけはしなかった昭和天皇は自身の名前で開戦の詔勅を下しており、戦争自体を否定していません。

 

そして戦後の記者会見で問われれば、「私は平和努力というものが第一義になることを望んでいたので、その明治天皇の御歌を引用したのです。」とだけ答えています。これは天皇の表向きの表現としてもっともで遜色のない回答です。しかし、実際には明治憲法下の元首として立派に開戦責任を果たした一方で、戦後国民には平和の大切さを説くという二重の責任を負ったのが昭和天皇の真の姿だったというのが事実ではないかと思うのです。

 

なお、「昭和天皇七つの謎」には、この後なぜ「昭和天皇実録」にこの「あだ波」が記載されなかったのか?まで取材されて書かれています。

 

単純になにもしなければ平和でいられるという思い込みの平和主義者がたくさんいますが、世界の現況をみればそうでないことは明らかですし、平和を歌っている人のほうが危険な行動を起こし、世の中を乱しているということが世界中でみられています。平和であるということはどういうことなのか?こうした事実から考えるいい機会ではないないかと思います。そして歴史上の事実を考える時、当時の世界状況を知って考えることは必要不可欠です。当時の世界とは、アジア・アフリカの内、日本とタイ以外すべて植民地となっていたという事実です。そしていわゆる新大陸といわれる土地は、全て侵略され別の国々となっていました。

 

 

昭和天皇は「よもの海」を詠まれたことで、敵である米英蘭を鎮める意味をこの歌に潜ませたのではないか?、「平和を願うものの、敵のせいで四海が荒れて困ったものだ」と解釈した時に、頭に浮かぶのは元寇により炎上した筥崎宮に納められた亀山上皇の御宸筆による「敵国降伏」の本来の意味です。「敵国降伏」とは、武力によって敵を降伏させることではなく、徳の力をもって導き、相手が自ら降伏するという我国の国柄が現れた言葉です。こうした意味を知ると、開戦の勅書の内容ともシンクロしていくのです。こうした言葉の本来の意味を知る前とあとでは、こうしたことの見え方もまた変わってきます。「シラス」、つまり知るということは、なんと深いものかと考えさせられます。

 

 

 

 

あの時代の青春。いつの時代も戦争に一番翻弄されるのは若者たち。

 

 

 

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