第六七代三条天皇は平安時代、藤原氏摂関政治期の天皇です。藤原道長全盛期に天皇に即位されていますので、現在放映中の大河ドラマにも登場するやもしれません。(私は見ていませんが・・・)


生年は天延四年(976年)。


御父は冷泉天皇、御母は藤原超子。


御名は居貞(おきさだ・いやさだ)。

 

居貞親王は摂政大臣藤原兼家の孫にあたり、兼家の後押しで父の弟君であった円融天皇の皇子の一条天皇の皇太子となります。この時、一条天皇七歳、東宮が四歳年上の十一歳であったため「さかさの儲けの君」といわれています。一条天皇の即位のいきさつは、藤原氏が花山天皇をだまして出家させたものであり、そこに冷泉天皇系と円融天皇系の両統送立に基づく形で兼家が外孫を押したのです。


藤原氏間の権勢闘争が終わり、道長で藤原氏全盛期を迎えた頃、一条天皇危篤により譲位され36歳で即位。


皇后には道長の娘で中宮の研子ではなく、20年共に歩んだ藤原乙子を立后した為、道長の嫌がらせを受けています。儀式当日にあわせて、中宮研子の元に皆が集まるようにしたもので、立后の儀式に参列したのはわずかな人数でした。


その中宮研子との間には女児しか子がなく、皇太子は道長の孫である敦成親王(一条天皇の皇子)だったためと眼病を患われたため、何度も道長から譲位を迫られます。しかし親政を望む天皇は道長の圧力に屈しませんでした。


しかし眼病の悪化や内裏の火災が二度続いたためとうとう三条天皇は第一皇子敦明親王の立太子を条件に長和五年(1016年)敦成親王に譲位(後一条天皇)。後院(譲位後の居所)の名称から三条院と呼ばれました。


在位期間は、寛弘八年(1011年)~長和五年(1016年)。


百人一首の六八番歌は三条院のものですが、これは天皇から譲位した時に詠まれました。
心にも
あらでうき世に
ながらへば
恋しかるべき
夜半の月かな

 

これは「心ならずもこの辛い世に生き長らえたなら、いずれは道長の権勢に影が差し、あの望月(夜半の月)すら恋しいと感じる時がくる」という三条院の世の中が変わることを願った歌といいます。望月とは十五夜の月、満月の事をいいます。


藤原道長といえばこの二年後、三女の威子が後一条天皇の后となった祝いの宴で詠んだ歌が有名ですが、もしかしたら三条院の歌が頭にあって詠まれたのかもしれません。
 

この世をばわが世とぞ思ふ望月の
かけたることもなしと思へば


この時が藤原家の頂点でしたが、三条天皇の歌の通りこの後は藤原家の権勢もゆるやかに右下がりとなっていきますから、三条天皇の御製の言霊の力もあったのかもしれません。


譲位の翌年崩御。後院から三条院と追号され、大正以後「院」の号が廃され三条天皇とされました。

 

『歴代天皇の御製集』には、上記御製と譲位された年の秋に詠まれた御製のあわせて二首が紹介されています。こちらも月を詠まれた歌です。その解説もあわせて以下に引用しましたが、三条天皇の想いが時代を経ても伝わってくる歌ではないかと思います。

 

秋に又逢はむ逢はじもしらぬ身は

今宵ばかりの月をだに見む

 

次の月に再び逢うか逢わないか分からない私の身ではあるが、せめて今宵限りの月だけでも心ゆくまで眺めよう。

「今宵ばかりの月」とのお言葉には、死の近いことを予感される天皇が、この世で最後にご覧になるかもしれない秋の月として、まさに今夜の月をひときわ美しく眺められたのであろうと拝するのである。前の御製とあわせると、三条天皇には、目がご不自由にもかかわらず、月を眺めることが唯一の慰めとして心の安らぎを覚えられる時だったのだろうと、感慨深く拝察申し上げるのである。

 

たぶん月の明るい晩には、はっきりと月が見えなくても、その明るさから月を感じることができたのではないだろうかと考えたりもしますが、目の調子は良くなったり悪くなったりしたといいますので、不本意な譲位とはいえ、上皇となったことで目の調子が小康状態となり、月を愛でたのかもしれません。

 

御陵は北山陵(きたやまのみささぎ)で、京都市北区衣笠西尊上院町にあります。

 

すぐ近くには金閣寺がありますが、鎌倉時代の公卿の別荘が始まりのため、この時代には存在していません。

 

三条天皇が即位を願った敦明親王は立太子後、その地位返上に追い込まれ天皇にはなりませんでしたが、道長は敦明親王を准太上天皇とし(院号は小一条院)、さらに娘の寛子を嫁がせ優遇いたしました。これにより冷泉天皇系の皇統は終わり、円融天皇系へと皇統が変わります。小一条院の第四王子は、源氏の賜姓を受け源基平となり参議になっています。基平の子の行宗は後に大蔵卿になり、また崇徳院歌壇で重きをなしていきます。また基平の弟、信宗、顕宗、当宗も源氏賜姓を受け、三条源氏となりました。

 

「公家源氏」より

 

 

四代後の後三条天皇は、後朱雀天皇と三条天皇の皇女の禎子内親王の間に生まれ、170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇として即位されました。禎子内親王は藤原道長の孫ですが、親王を期待していた道長は内親王が生まれがっかりし、内親王に冷たかったと伝わります。また親王が生まれなかったことが、三条天皇への譲位の圧力ともなりました。こうしたことを幼い時から見知っていたでしょう後三条天皇は、さらに藤原氏を外戚としない為、東宮となりながらも嫌がらせを受け続け、長い皇太子時代を経て即位されています。後三条天皇が、生前から後三条を名乗られていたことで知られているのは、過去のいきさつと自分が受けた嫌がらせが関係していて名乗られていたものと思われます。後三条天皇は、わずか数年で組織改革をされてその後の朝廷を変えた天皇として戦前は良く教えられた天皇のお一人でしたが、三条天皇の存在が与えた影響が大きかったことが後加号から伺い知ることができるのです。

 

 

天皇の歴史を知ることは現在の歴史にも繋がることでもあります。三条天皇の前後の時代は藤原氏専横の時代でもあり、明治の御世になってから譲位の悪例とされました。

 

なお三条天皇を悩ませた眼病は、瞳が澄んできれいだったこと、時に見えたり見えなかったりした経過、修法など気分を和らげると視力が良くなったその症状から緑内障ではなかったか、と推測されています。発病のきっかけは、道長との確執や内裏炎上など精神的打撃を受けた結果の心因性ではないかと、『病が語る日本史』に書かれています。精神的打撃とは、当時ほとんどの病気の理由は怨霊によるものと信じられていたため、病気になると心理的負担が大きかったことによります。まず行われたのは、加持祈祷であり、祈祷の度に色んな怨霊の名があげられることは、相当な負担になったものと思われるからです。三条天皇の目は見えるようになったり、悪化したりを繰り返し、悪化するたびに加持祈祷が行われていました。

 

 

参照:『宮中祭祀』展転社

『旧皇族が語る天皇の日本史』PHP新書

 

嫌がらせ、現代ならパワハラとなる行為ですが、権力の下でそうしたことが行われ、その時は廻りの人が何もできなくても、そうしたことは人々の下で積もり積もって世の中を変える力になっていくのではないか、と思うのが三条天皇の境遇です。歴史というのは、こうしたことを垣間見せてくれます。だからこそ、歴史を知ることで未来への希望がもてるのではないか、と思うのです。

 

表向きは誰も語らないけれども、多くの人がおかしいと感じていること。誰も公には何も言わないが、何かの拍子にみな同じことを考えているということがわかることがあります。そうしたことが積み重なって、後の世にパワーとなって後の世の中を変えていく、そんな存在が三条天皇だったのではないかと思われます。こうした方がいたことを知ることは、今生きる私達にも、未来を信じる力、未来へ託す力を与えてくれるのではないかと思うのです。

 

 

 

 

 

 

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