第四五代聖武天皇は奈良時代の天皇です。日本の歴史では必ず名前の出てくる有名な天皇のお一人です。聖武天皇の時代には、初めて行われたことが沢山ありました。


和風諡号、天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)。

 

生年は大宝元年(701年)。

 

御名は首皇子(おびとのみこ)。


御父は文武天皇、御母は藤原宮子、藤原不比等の娘です。


在位期間は、神亀元年(724年)~天平勝宝元年(749年)。


父である文武天皇が七歳の時崩御されたため、その母つまり祖母が中継ぎの為即位(元明天皇)、また父の姉(元正天皇)に中継ぎの中継ぎで譲位され即位しています。2度の中継ぎの後の譲位にて即位されました。

 

 

皇后は藤原不比等の娘の安宿媛(あすかべひめ)通称、光明子(こうみょうし)。初の皇族外からの皇后として光明皇后となりました。しかし、皇后は夫の天皇崩御後に中継ぎの天皇とし即位する可能性があるので、皇族しか立后されないのが慣習で不文律であったことから、長屋王(父は天武天皇の皇子の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女)が反対していました。これが後の長屋王の変に繋がる一因と言われています。

 

長屋王の変とは、藤原四兄弟との確執から長屋王に謀反の疑いがあると屋敷を包囲され、長屋王がその妃と子らを絞殺し服毒自殺した事件です。讒言であったとする説が強くあります。この長屋王の妃は、元正天皇の同母妹の吉備内親王でしたから聖武天皇の伯母となります。長屋王排斥は、有力皇族臣下の排斥でもあります。

※昭和61年には平城京の東南の隅に位置する一角で、長屋王の屋敷跡が見つかり話題になりました。

 

 

この長屋王の変の後、光明皇后の立后詔が発せられました。


その後、天平九年(737年)には疫病(天然痘)が大流行し藤原四兄弟他政府高官のほとんどが死亡する惨事がありましたが、これは長屋王の怨霊ではないかともいわれ、これは後の聖武天皇出家の要因の一つともいわれています。この時は、長屋王の弟の鈴鹿王に命じて政府の体裁を整えています。

 

天平十二年(740年)には、藤原広嗣の乱が九州で起き、その鎮圧の最中に突然天皇は関東(当時の伊勢国、美濃国)へ行幸し、そのまま遷都を行い、それを繰り返していきます。

 

天平年間は、疫病・災害多発のため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平十三年(741年)には国分寺建立の詔、天平十五年(743年)には東大寺盧舎那仏建立の詔を出されています。

 

天平十五年(743年)には、墾田永年私財法を制定し、これが後の荘園発生の始まりとなりました。

 

しかしこの頃から病気がちで職務が取れなくなり、晩年の元正上皇が天皇に変わって政務を遂行されていたようです。なお、上皇は天平二十年(748年)崩御されています。


聖武天皇は造林による産業の振興を図り勧めてもいます。積極的な造林をして、仏寺院建築による伐採を補ってもいますから、今に続く森林保護の先駆けです。


皇太子が若くして薨去したため、娘の阿倍内親王を皇太子としました。女性が皇太子になったのはこの時だけです。天平勝宝元年(749年)には譲位し出家、男性では初の太上天皇となります。天皇が出家したのは初めてで、神仏融合が加速していくことになります。

 

 

天平勝宝四年(752年)、東大寺大仏の開眼法要が行われました。この大仏開眼は仏滅仏徳によって国土の平安、国民の幸福を祈るという趣旨によって始まった国家的大事業で、これを聖武天皇(この時点では上皇)が中心になって行ったことに最大の意義があります。大仏は廬舎那仏が正式名で、華厳経の本尊です。そしてその華厳経では、およそ世の中にある者、世の中に起こること、全てお互いに関連があり、影響され合うもので、何一つ孤立しているものはなく、一つは全てに繋がり、全ては一つであるという無限の真理を説いています。

 

天変地異や藤原氏の専横、政変、怨霊、自身の病弱などに翻弄され、また三度の遷都を行った天皇でもあります。聖武天皇については沢山書かれたものがありますが、「中今」という当時良く使われた言葉のまま、聖武天皇はこの時代に真剣に悩み生きた方なのでしょう。これは現代風にいえば「いまここ」ということです。そうしてそう至る背景には、その時代の空気があったのではないか、とも思うのです。


聖武天皇の祖母の元明天皇の時代に古事記が、伯母の元正天皇の時代に日本書記が完成しており、聖武天皇はこれを最初に聞かれたであろう第一世代です。そこに書かれた天皇のご先祖である神代の巻きの話は、不思議な物語に思えたでしょう。しかしこの華厳経では、その繋がりが不可思議な物語ではなくなり、国とも融合してくるものとなるのです。だからこそ聖武天皇はそれをお喜びになり、国々に国分寺と国分尼寺を置かれその中心には大仏を建立された。つまり、大仏とは日本が一つの国でありみな繋がり合っていることの象徴であり、また国土の平安と国民の幸福を祈られる天皇の大御心の証でもあるということです。

 

また悠久の歴史と現在の自分との出会いは、今の一刻一刻を精一杯生き、できるだけ価値ある物にしようという時間点や歴史観が生まれるかと思います。この時代に「中今」という言葉が流行っていてよく使われていたという事は、記紀編纂が成されたことと無縁ではないと思います。


聖武天皇の御代には、「万葉集」の編纂や、唐僧の鑑真の来日もあり、天平文化が華開いた時期として小説等にも多く取り上げられた時代です。

 

渤海国からの初の使節派遣があり以後渤海国滅亡まで交流。飢饉と疫病が蔓延した新羅からの多くの難民。遣唐使派遣等、国際交流も目立った時代でもあります。

 

 

尋常小学校の国史の教科書には聖武天皇の御代について、以下のように書かれていました。

「奈良時代の中で一ばん盛んであったのは、第四十五代聖武天皇の御代である。この頃は、たびたび唐とゆききして、世の中がたいそう開けてりっぱになり、宮殿などの建物は、壁を白く、柱を赤くぬり、青瓦で屋根をふいて、まるで絵のような美しさであった。そうして、人々の服装も一様にはなやかになった。
聖武天皇は、日頃あつく仏教を御信仰なさった。それ故、この教えをひろめて、世の中がおだやかによく治まるようにしたいものとお考えになって、国ごとに国分寺を造らせられた。取り分け、奈良には、大和の国分寺として、東大寺を建てさせ、大仏を鋳(い)てこれをまつらせられた。その大仏殿は、後にたびたび造りかえられたが、高さが十五丈余りもあって、木造の建物では世界第一といわれている。また大仏も高さが五丈余りもあって、その大きいのに驚かぬものはない。
聖武天皇の皇后は、藤原鎌足の孫でいらっしゃって、世に光明皇后と申し上げる。皇后も、またあつく仏教を御信仰になった。御生まれつき御なさけ深く、貧しい人々のために病院を建てて、薬をおめぐみになり、また孤児を集めてこれを養わせ、ひろく人民をおいたわりになった。」

 

天平勝宝八年(756年)崩御。

 

御陵は佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)、奈良市法蓮町にあります。

 

 

なお東大寺の聖武天皇祭は、例年五月二日に行われ、五月三日には山稜祭が行われています。この二日の聖武天皇祭の日のみ、普段は公開されていない天皇殿が公開されています。お寺はなぜか新暦で行事を行うところが本当に多いです。

 

 

 

令和二年、「緊急事態宣言中、宗教を超えた祈りが話題になった大仏殿前の共同記者会見があり、正午の祈りが続けられてきましたが、昨年5月31日に終了しました。

 

流浪の天皇とも言われ、大仏建立等や遷都を繰り返した負担から民の反発も買ったともいわれる聖武天皇ですが、現在に起きていることに対応する時、何が正解かなど誰にもわかりません。今はよくても長い目で見れば、そうしたことが悪くなる原因となることもありますし、今良いと思っていても多くの人には悪くしか見えず、時を経てやっと評価されることもあります。そして、国を預かる者としては時を超えた視点が必要となります。そうした中で試行錯誤され悩まれた天皇が聖武天皇だったのではないかと思いますし、そこには疫病により政府高官が大勢亡くなったことによる重責もあったのだろうと思います。当時よく使われた言葉「中今」は、「世の中には最初から完全なものはなく、人々の努力次第で次第に良くなるもの、良くすべきものという考えがあり、それが今の一刻、一刻を精一杯生きるということ」を意味していました。つまり、中今とは「いまここ」ということを意味します。聖武天皇はまさに悩みながらも中今を歩まれ、長い目で見て人々のよりどころとなる、国分寺や大仏建立をしたのではないかと思います。
 

聖武天皇の思し召しの象徴のような大仏のある東大寺が、約1270年後の世界的規模の疫病蔓延の時に、宗教の垣根を超えた祈りを伝える場となったのは、聖武天皇の将来を見据えた視点が実を結んだといえるのかもしれません。

 

 

 

 

 

参照:『宮中祭祀』展転社

※祭日の日付は上記から、しかし旧暦の関係か本により崩御日が違います。
『旧皇族が語る天皇の日本史』PHP新書
『天皇を知りたい』学研
『日本史の中の世界一』育鵬社
『歴代天皇で読む日本の正史』錦正社

 

 

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子供向けの物語になった『古事記 そこに神様がいた不思議なはじまりの物語』では、古事記の物語が劇中劇形式で語られる形となっており、その物語を聴く子供の一人として首皇子(のちの聖武天皇)、そして後の皇后となる安宿媛が登場します。この物語の設定はとてもうまいと思うのですが、お二人は、神話が形作られた時代に成長された、記紀第一世代といえます。つまり聖武天皇の子ども時代にすでに「古の話として伝えられてきた事の記」が古事記、そして日本書紀といういわけです。そうした、時代背景がとても分かりやすい物語であるというのがこの本のポイントです。子供向けですが、大人も楽しめる形となっています。メインは神話ですが、古事記を物語として読み解きたい方の入門編となる本です。

 

 

 

 

 

 

奈良テレビチャンネル作成の、聖武天皇縁の場所が紹介された動画

 

2020年行われた平城京天平行列。加藤雅也さんが聖武天皇役です。サムネ写真通り、黒い覆面をされているのが聖武天皇役の加藤雅也さんです。疫病が蔓延したこともあった時代ですから、聖武天皇が実際にこのような覆面をされたこともあったかもしれません。普段なら顔を隠すことなく行われている行事ですから、この行列はレアなものになるかもしれません。

 

 

 

 

 

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