私の生まれた栃木県足利市で一番有名な人は相田みつをさんかと思います。私が子供の頃は知られていませんでしたが、地元の有名なお菓子屋の装丁を相田みつをさんがされていたので、その字は子供の頃から知っていましたから、最初に相田みつをさんの字を見た時、とても懐かしく感じその字や言葉にはいつも感銘を受けています。


その相田みつをさんの言葉には特に好きなものがいくつかありますが、その一つが「いまここ」です。



いまが大事だ、ということです。



この「いまここ」というのは、昔からある日本の考え方で「中今(なかいま)」そのままだと思います。神道に興味を持ってから知った言葉なのですが、ちゃんとそうした言葉があった事を、神道に興味を持つまで知りませんでした。相田みつをさんは、その「中今」を現代的に「いまここ」と書いたのかもしれないと最近では考えています。というのも相田さんは仏教に縁があったからです。仏教と神道は絡み合っていますので、そこからの発想もあったのかもしれないと。

「中今」が記録として初めて残されたのは、「続日本紀」の文武天皇即位の時の宣命のようで、その後続けて四代の天皇の宣命に使われていますから、もしかしたら、その当時流行の言葉、考え方だったのかもしれません。

文武天皇元年(697)文武天皇御位につきたまふときの宣命
(前略)高天原に事始めて、遠天皇祖(とおすめろぎ)の御世御世、中今に至るまでに、天皇(すめら)が御子のあれ坐(ま)さむ弥継継(いやつぎつぎ)に、大八嶋知らさむ次(つぎて)と、天つ神の御子随(なが)らも、天(あめ)に坐(ま)す神の依(よさ)し奉りし随(まにま)に、(中略)天下(あめのした)の公民(おおみたから)を恵み賜ひ撫で賜はむとなも、随神所思行(かんながらおもおしめ)さくと詔り賜ふ天皇が大命(おおみこと)を(後略)」

次の元明天皇は、和銅元年(708)正月の祭で「年号を和同と改めたまふときの宣命」、またその次は元正天皇の神亀元年(724)2月の「元正天皇御位を聖武天皇に禅(ゆず)りたまふときの宣命」、そしてその次は聖武天皇の天平21年(749)4月朔日の陸奥の国で金が発見された際の「黄金の出でたるにつき下したまへる宣命」で、同じような文脈で使われているようです。

この言葉を本居宣長は、「中今とは、今をいふ也、(中略)中といへるは、当時(いま)を盛りなる真中の世と、ほめたる心ばへ有て、おもしろき詞(ことば)也(後略)」と書いています。

今を「盛りなる真中の世」とする宣長の見解の背後には、古代から受け継がれた日本人の歴史観や現世中心主義が窺われるといいますし、その真ん中の世をほめるというのは、日本古来の言霊発令の考え方でもあります。

古代、「中」の語は、内部や中間を意味するとともに、“中心” “精神”とでもいうべき、祝福賛美の意味もあり、天御中主神、芦原中国、六合之中心(くにのもなか)などの名前にも表れています。

神代から現代まで風土的条件に恵まれた日本の神道では、他国に見られるような厭世感は育ちませんでした。日本の古典には高天原、黄泉、常世などの他界が登場しますが、それらが現世以上に魅力のある世界とは表現されていないし、唯一死後の世界が登場する伊邪那岐の黄泉訪問の神話は、生の発展を約束し終わります。ここには、世の中には最初から完全なものはなく、人々の努力次第でしだいに良くなるもの、良くすべきものという考えがあるというのです。

そしてそこに中今の思想、太古の昔から未来へと持続する、悠遠な時間の流れの中に現在が中心点として存在していて、現在という瞬間に重みがかけられているという時間論や歴史観、または、悠久の歴史と自分自身との出会いである今の一刻一刻を力いっぱい生き、出来るだけ価値あるものにしようとする生活態度があったとすれば、先人達は実はとても現実的に今を生きていたんだということが理解できるような気がします。つきつめて考えれば、私は、特攻隊の方々は中今を生きたのではないかとも思うのです。有名な写真に特攻直前の少年たちの笑顔写真があります。これはいまここを大事と生きたのだと。



それから思い出したのは、幕末明治に来日した外国人達の日本人評、貧しくとも皆楽しそうな笑顔でいたという言葉の数々です。いつも笑顔でいたというのは、生を謳歌していたのではないかと思います。今、このような笑顔はなかなか見るのも難しくなっていると思います。

折口信夫はこう書いています。続紀には「すめらが御代御代中今」という風な発想がみえている。これは、今が一番中心の時だという意味である。即、今のこの時間が一番本当の時間だ、と思っているのである、と。

私達は未来を見据え計画を立てますしそれも大切なことだと思います。しかし、今一瞬一瞬通り過ぎるこの今を大切に生きることが実は一番大切なことでもあるのを、私達は、いや私は忘れていたなあ、とふと考えたのです。未来を見すぎて今この時間がおろそかになってしまっては本末転倒なのです。


中今
いまここ