我が国では、戦後GHQの政策のせいで本来国史できちんと教えられるべきことが教えられなくなったことがたくさんあり、その影響が今も我が国に様々な影響を残しています。

 

そうした政策の中には焚書もあります。GHQは国際規約に反する焚書を行っています。その焚書のせいで、戦前だったら当たり前に多くの人が知っていたことが忘れ去られてしまったことがたくさんあり、その中には日本の歴史、国史に関する書物や、天皇と皇室に関するものなど、日本人としてのアイデンティティや誇りを培うものがたくさんありました。


私が初めてこうしたGHQがしていたのが焚書であったということを認識したのは、西尾幹二氏が焚書図書について解説している動画を拝見した時でした。

 

西尾幹二氏といえば、定期的にこの動画がSNSIに上がってきますが、定期拡散されるのもわかる短いながらも情報が詰まっています。自虐史観の人でもこれには反論ができないでしょう。朝鮮や台湾に大学まで創ったことをあげながら、それは日本人の優越感であったろうが、民族の抹殺など思いつきもしない日本人が犯したことなど、ドイツ人が犯したこととは比較にもならないと喝破しており、あの朝まで生テレビで誰一人口を挟めず聞き入らせています。

 

『GHQ焚書図書開封』の書籍もあり、シリーズで12冊あります。

 

焚書の復刻は地道に続けられてきましたが、その焚書の復刻の動きがここ何年も加速しているように思えます。目にする機会が増えたのは、私が興味を持っていることもあるでしょうが、それだけではなく復刻を扱う出版社が増えているからではないか、と考えています。それは西尾幹二氏の活動がじわじわと影響を与えてきているのかもしれません。

 

『二千六百年史抄』はそうした復刻本の一つで、著者の菊池寛は文芸春秋社を興し、芥川賞や直木賞、菊池寛賞の創設に携わった作家・ジャーナリストですが、戦後GHQにより公職追放となっています。

 

検索してみたら青空文庫内にもあったので、焚書図書のタイトルがわかれば青空文庫で読める本がけっこうあるかもしれません。

 

『二千六百年史抄』は大衆向けに書かれただけあって、復刻版では字が大きいのにたったの151頁で冊子のような薄い本となっていて読みやすく、あっという間に読み終わりました。序文にも菊池寛自身が原稿用紙百五~六十枚にまとめるのは至難中の至難と書いていますが、流石作家というのはまとめるのがうまいです。そしてその序文の最後はこう締められています。

「日本歴史の知識を十分に持つことは、日本人としての自覚を持つうえで、最も大切なことではないかと思っている。 昭和十五年七月二十八日」

 

本書は、神話からつながる国らしく、最初の神武天皇の章が天孫降臨の下りから始まりますが、その東征のところに以下のような日本人らしい考え方が書かれています。

神武天皇は、御天性の勇武とあらゆる知略とをもって、これ等を次々に征服して行かれた。

しかしながら、寛宏なる皇師は、これらの者どもに対して、決して殲滅的攻略に出ることはなかった。

帰路(まつろ)はぬ者こそ、平定したが、天つ神の子孫が、この中つ国を支配すべき名分を信じて帰順したものには、最大の仁慈を垂れたもうたようである。

 

こうした歴史は、例えば出雲神話をはじめとする日本各地に残る国譲り神話が反映されている神社からみてとることができます。つまり征服された人たちを神として祀ってきたことで、抹殺してなかったものにはしてこなかったことがわかります。

 

また本書には、卑弥呼や邪馬台国は全く登場せず、戦前は問題にもされてこなかったことが実感として読めます。なにしろ、有名な神話に登場しない神様でも日本各地には祀られている神社がいくつでもあるのに、それほどの有力者でありながら、卑弥呼を祀った神社が存在しないということそのものが、過去にいたとしても一地方の豪族で大陸の書物に登場したにすぎないことがわかるからです。(戦後作られた神社があるようですが)

 

それから、日本に伝わった多くのことは朝鮮半島から伝わったと最近では教えられることが多いのに対し、本書では動乱で朝鮮半島に避難してきたチャイナ人が安住できないため半島を経て日本に渡り、建築・造船・裁縫・家事・機織り・製陶などの技術が革命的な進歩をとげ、また漢字と儒教と仏教とを持ってきたと書かれているのです。確かに、当時の歴史を読めばなかなか技術の発達が出来なかった国でもあるので、チャイナ人が半島を経て日本に来た方が納得できます。国が滅びて亡命してきた王仁博士という存在もありますけれども、名も残らないほど多くのチャイナ人が持ってきたからこそ普及したのだという方が説得力があります。

 

それから戦国時代に統一に向かっていく流れについてが、日本の思想史として書かれています。

群雄の胸裡に共通した思想は、京都に出(い)で、皇室を戴くということであった。天日を掩っていた雲が除かれたごとく、足利将軍が没落すると共に、皇室尊崇の思想が目覚めてきた。領土拡張に夢中に見える群雄達も、皇室を戴くにあらざれば、天下に号令することが不可能であることを、皆心得ていたのである。

中略

だから、戦国時代の後半は、彼らの上洛戦争になっていたのである。

 

それから最近は信長について語られるとき、必ず叡山の焼き討ちに言及されることが多いですが、この当時までの僧といえば武装した集団であり、平安時代の末から天皇も手を焼いてきた悪僧の禍根を絶ったのは信長の大功と書かれています。また近年の描かれ方では癇癪持ちの悪魔的側面ばかりが強調されていますし、秀吉についても酷い描かれ方が目立ちますが、本書ではこう書かれているのです。

信長は一切の旧きものの破壊に続いて、直ちに建設に着手している。皇居の造営、首府たる京都市街の復興、検地、金山銀山の経営、朝鮮との外交政策等を見ても、決して単なる癇癪持ちの荒大名ではない。頭脳的にも、創意に満ちた英雄であった。彼の茶と学問の奨励は、元亀天正の荒武者たちの品性を高めるためであり、同時に、幼児から粗暴と言われる自らの性行の反省修養のためであったとも考えられる。

中略

わが国二千年の伝統を捉えて、そこに自家の政治の根柢を求め、徳川三百年の太平をかち得た家康はやはり近世的な大政治家たる資格の所有者と言わねばならないと思う。しかし、皇室に対する態度では、秀吉が一番良い。聚楽第に後陽成天皇の行幸を迎え奉ったことは、どんなに皇室の貴むべきかを当時の天下に知らしめたか分からない。信長も皇室の貴むべきことを心得ていた。家康はその点で一番劣っている。

 

信長はその父の時代から、皇室への援助を続けてきており、だからこそ天皇からの信頼も得ていますが、そうしたことは片鱗といえども近年の信長の描写にでてきません。しかし、そうした時期を経て最近は本来の信長像を紹介する歴史家が増えましたが、実は戦前は当たり前にそうした姿は教えられてきたことだったのです。

 

中学、高校と歴史教科書の内容が濃くなっていったときに、幕末の思想の移り変わりは、何度読んでも混乱させられたものですが、そこにきちんとした国学についての知識がなかったからだと今では考えています。本書ではそれもしっかりと書かれていて「国学の興隆」の章があります。この国学の流れがわからないと幕末の流れも明治政府の成り立ちも理解できないと思います。ただ言葉で国学というだけではだめなのです。

 

幕末、薩長はイギリスから、幕府はフランスからの援助があったことが知られていて、それぞれの国の思惑があったことがわかりますし、現在では戊辰戦争の際の武器はアメリカの南北戦争の際の余った武器を売り払って始末したとも言われており、それは映画『ラストサムライ』にも垣間見れました。その映画のモデルとなったという西郷隆盛は、英国公使パークスに機会ある度に、幕府及びその背後にあるフランスを打倒すべくすすめ、そのためにはどんな援助も惜しまないともちかけた時の西郷の返事が紹介されています。

戦争のことはとにかく、日本の政体変革のことは、われわれ日本人だけで考えるべき問題である。外国の援助を受けるは面目ない。

 

また伏見鳥羽の戦争が一触即発のその直前に、大阪城に在る慶喜の元へ、岩倉卿から一使者が遣わされ、孝明天皇御一年忌に際し、献金のことを申し出たそうで、慶喜は直ちに五万両を朝廷に奉ったそうです。

 

明治になってから、アメリカのグラント将軍が来朝した際に、明治天皇は政治上のことをご下問になられましたが、将軍は「日本の憲法は日本の歴史及び習慣を基として、御起草あそばされることこそ最も願橋く存じます。」と答えました。伊藤博文は憲法調査のため外遊し、ドイツやオーストリアの憲法学者に教えを聞き、フランス・イギリスを歴訪して参考資料を集めて帰国しました。そして、日本精神の根底をなす、皇室中心の忠君思想を盛って、日本独自の憲法を起草したことが書かれています。

 

 

先月27日はGHQの影響で、戦前は日本海海戦記念日だったものが、今の日本では全くそうしたことが教えられなくなった日の一つでした。その日露戦争に関する箇所を以下に一部引用しますが、それは本書の末尾となっており、そのままこの昭和十五年の日本国民へのメッセージともなっています。だからこそGHQは本書を焚書としたのでしょう。

 

日清戦争によって、東洋における位置を確立した日本は、その発展途上の宿命として、露西亜(ロシア)と衝突せねばならなかった。

これは、当時としては、喰うか喰われるかの一大抗争であった。

日清戦争の終局において、三国干渉の首謀者として日本の遼東半島領有を放棄せしめた露西亜は、逆に旅順、大連を獲得し、まさに満州を軍事的に占領し、さらに朝鮮へも南下しようとしているのである。もし、この形成を甘受すれば、日本もやがて、彼の勢力下に蹂躙されたかもしれないのだ。

これより先、日本は、日清戦争の苦き経験に教えられて、日英同盟を締結し、専心露西亜に備えていたのである。

日清、日露両役を通じて、明治天皇が、軍国の御政務に御精励遊ばされた御様子は、恐れ多き極みで、幾多の御製を拝してもその一端を拝察することが出来るが、二箇年の歳月を経た日露戦争後には、戦前まで漆黒であらせられた御頭髪が、半白にならせ給うたとの事で、恐れ多くも、六年後の御大患は、この戦争中の御過労に起因するともいわれているのである。

国家のいかなる大事変に際しても、何人よりも御軫念(ごしんねん)遊ばされるのが、上御一人であることを思う時、我々は三思して日本国民たる多幸を思い、奉公の誠を尽くすべきだと思う

今や、わが日本は、世界新秩序の一角たる東亜新秩序建設に従事している。「無賠償、無割譲」という道義的和平条件を正面に立てて、東亜諸民族の恒久平和の楽土を建設するために戦っているのである。

その目的は宏遠であると共に、日本始まって以来の難事業である。しかし、この大業が達成されるかどうかは、日本の国運をも、左右しかねないのである。

我々は、先祖以来二千六百年来の皇恩を思い、現在日本国民たるの多幸を思わば、一致団結、今次の大業のために、身命を捧げ、もって二千六百年肇国以来の皇謨(こうぼ)を扶翼し奉るべきであると思う。

※()内は仮名をつけています。

 

上記を読めば、日清・日露戦争がいかに命がけの戦いであったか、ということを当時の人が認識していたことがよくわかります。それは、現在のウイグルやチベット、またウクライナの状況を考えても、もしこの時負けていたら、もしかしたら日本の姿だったかもしれないと想像できます。また、本書は真珠湾攻撃が行われた前年に書かれたものですが、「無賠償、無割譲」という道義的和平条約を正面に立てて、東亜諸民族の恒久平和の楽土を建設するために戦っている、という認識が多くの日本兵が戦後もアジアの各地に残って独立戦争を一緒に戦うという道を選ばせたことに繋がっていきますし、開戦の詔の内容にも通じています。

 

 

時代背景もあり、鼻につくと思う文面も多少あるかもしれませんが、我が国の歴史の要点と流れが一気にわかり、また現在教えられていることや巷に流布していることとの違いが判る本として、お薦めの一冊です。

 

 

 

 

 

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