五年前の本日は、平成最後の日となった4月30日の上皇陛下の御譲位の第一段階の儀式、退位礼正殿の儀が行われた日で、令和の御代替わり行事開始の日となりました。

 

この御代替わりは、平和な時代で特別な理由もなしに御譲位の形を歪められたという点で、国史上初の異例な儀式であったことが日本がある限り語り継がれなければならない事件です。どこが異例であったのかといえば、御譲位の儀式は同日に全て行われるのが過去の通例だからであり、もしできない場合は践祚(三種の神器を引き継がれる儀式)だけでも先に行うものとして行われてきたからです。事実昭和天皇崩御の昭和64年1月7日(1989年)は同日中に践祚が行われました。ところが、今回の御譲位は4月30日と5月1日に分けられました。さらに、新元号は新天皇が発するものですが、上皇陛下が発したことも国史上初の異例であったことも忘れてはならないことです。


この4月30日は図書館記念日でもあります。

 

 

昭和25年4月30日、画期的な文化立法である図書館法が公布され、それを契機として日本の図書館活動は新しく生まれ変わりました。サービスとしての公共図書館の機能が明らかにされ、無料原則がうちたてられ、わが国は、真の意味での近代的な公共図書館の時代をむかえたのです。日本図書館協会は、今日の図書館発展の基盤となった図書館法公布の日を記念して、4月30日を「図書館記念日」とすることにいたしました。
戦前の記念日(4月2日―帝国図書館長が天皇に図書館についての御進講をした日)との決別も意図しています。

※現在の図書館法は令和元年6月7日に法改正されたものです。

 

以上は日本図書協会HPからの引用ですが、気になるのがこの説明の最後に「戦前の記念日(4月2日―帝国図書館長が天皇に図書館についての御進講をした日)との決別も意図しています。」とあることです。つまり戦前は4月2日が図書館記念日だったのに日にちを変えたということになります。帝国図書館は明治30年に設立されてますので御進講を受けたのは明治天皇でしょう。この文言に「決別を意図して」とあるのが不快な感じがします。「戦前の記念日(~)と日付が変わった」の記載ですむのにわざわざ入れていることに自虐史観がみえるからです。日本が日本である限り、国史との決別はできません。

※図書館法とは教育法の一つで、「社会教育の精神に基づく図書館の設置及び運営」を目的とする法律。

 

ところで日本図書協会HPには「図書館の自由に関する宣言」のページがあります。昭和29年(1954年)採択されたものです。

 

図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。
第1 図書館は資料収集の自由を有する
第2 図書館は資料提供の自由を有する
第3 図書館は利用者の秘密を守る
第4 図書館はすべての検閲に反対する
図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。
(1979年5月30日総会決議)

※HPには各宣言に詳細な内容が書かれています。

 

この宣言を初めて知ったのは図書館を舞台にした物語『図書館戦争』がこの宣言を元にして生まれた話だったからです。この宣言を知った時、こういう宣言があることに感動しました。ここには「自由」という言葉が何度も登場しますが、この「自由」の英語訳といえば「フリーダム=freedom」や「リバティ=liberty」ですが、江崎道朗氏の著書「フリーダム」によれば、「フリーダム」の意味は「自由」というよりも「自主独立」の意味の方が近いそうです。

そして、一国が独立国といえるための三つの自由が挙げられています。
第一は、自国の防人をもって自国を守ること。
第二は、自ら教育したいように自らの子弟を教育するということ。
第三は、自ら祀りたいように自分達の神々を祀るということ。

そしてこのなかのどの自由も今の日本にないといいます。


この意味を考えて改めて「図書館の自由に関する宣言」を読むと、図書館を国に置き換えても読めることに気づかされます。

「図書館」を「我が国」に置き換えました。
我が国の自由に関する宣言
 1 我が国は資料収集の自由を有する
 2 我が国は資料提供の自由を有する
 3 我が国は利用者の秘密を守る
 4 我が国はすべての検閲に反対する

 

日本は戦後、焚書坑儒をやらされた過去があります。この宣言は1979年の決議ですから、まだ戦中世代が現役でがんばっていた時代にできています。そうした世代が日本の未来を憂いてこのような宣言をしたのではないかと思えてくるのです。

 

以前はウィキペディアで検索するとその経緯に「戦前に思想善導機関として機能した図書館の歴史を反省し~」と書かれていました。そう記すことによってこうした「自由」の宣言を助けたのではないかと思うのです。最近戦前の書物の復刻が相次いでいますが、そうしたものを読むと、戦前知る権利が侵されたり、外来語が規制されたなどということがなかったことがわかってきます。外来語の規制に関しては、むしろことあるごとに出現する「自粛警察」が闊歩した産物であったんだろうと思います。もちろん戦時下での規制はある程度あったでしょうが、現在私達が思わせられているようなものはなかったということです。むしろ、戦後の焚書坑儒や、歴史の歪曲あるいは教育の歪みのほうこそが問題です。しかも、最近のニュース、いえ主要メディアでニュースにならない内外のニュースなどを見れば、それは今も続いていることが垣間見れて薄気味悪いです。ネットの普及にて、そういうことが目に見えてわかる時代になってきたことには感謝ですが、一方でフェイクも増えて、より一層真贋を見極めなければならない時代になっているのかもしれません。

 

日本は戦後、本当の戦争に突入しました。最近知られるようになってきたサイレントインベージョンにより、国がおかしくなってきています。戦後34年経ってこの宣言が作られたのはこうしたことを見通して作られたのだろうとも思うのです。

 

つまり、こうしたことも本を読む自由がある我が国であり続ければ、正していくことができるだろう、と。

 

 

現在、国史の本が復活し、歴史を正す本や隠された歴史について書かれた本の出版も相次いでいます。また焚書坑儒から逃れた本の復活により、公正に当時を見ることもできるようになってきました。戦前が全て良かったわけではありませんが、全て悪かったわけでもありません。しかしそれも、隠されてしまっては判断することができません。両方知ることによって正しい判断ができるのですから、そうした知る権利が侵されてはならないということです。

 

本を読めば現在の日本の状況も、新元号の令和が引用された万葉集についても、我が国の歴史や伝統についても、新しいもの、新知識についても知ることが出来ます。現在IT化により、ITを利用して得られる知識が圧倒的に増えましたが、それでも本そのものがなくなることはないでしょう。国によっては、こうした知識が、図書としてもITからも得られない国があるなか、日本では図書の自由が守られています。この自由がある限り、日本本来のフリーダムを得られる日、取り戻せる日が来るであろうと信じています。

 

私は本を読むことで、皇室の歴史と密接に紐帯する我が国の歴史、国史を知るようになりました。そしてそこから、令和の御代替わりの異様さも知ることになりました。知ることは重要ですし、本を全て所有することが適わないなか図書館の自由が確保されるのはとても重要なことだと思います。

 

前述の図書館法の二条は定義について書かれています。その一部は以下となります。

(定義)
第二条 この法律において「図書館」とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資することを目的とする施設で、地方公共団体、日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人が設置するもの(学校に附属する図書館又は図書室を除く。)をいう。

 

ここに「図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資することを目的とする」とありますが、このうちの「保存」の定義から外れている図書館が増えている、つまり焚書を行っていると危惧するニュースが定期的に出てきます。

 

図書館の魅力の一つに普段なかなか手にできない高価で資料的価値のある書物があることがあげられます。ところが、私は随分前から全ての図書館に行く度に試しに探している本があるのですが、一度も検索で引っかかったことがありません。日本の歴史を知るためには必要不可欠な書物で、平成の初めに出版された書物なのにないというのはおかしいのではないかと考えている本です。そして、その本でなくても過去に同様の本が出たことがあるのでそちらも検索してみるのですが、いずれも見つけたことがないのです。もちろん私が行ける図書館など限られてはいますが、大きな図書館が多いことからこれは残念なことではないか?と考えています。誰でもすぐに手に入るようなベストセラーなどが何冊も置かれたりすることが多くなっているようにも聞きますから、これは図書館の在り方としても一考する必要があるのではないかと思います。

 

そしてもし、ある特定のイデオロギーの人たちによって意図的に図書館の蔵書の焚書が行われているのならば、それこそ「図書館の自由に関する宣言」に反しているのではないか!と言いたいのです。というのも定期的に、図書館の蔵書が廃棄されたニュースがあるからです。しかも替わりに蔵書となっているのが廃棄された本と比較にならないような本ばかりです。こうしたことが実は日本中で行われているのだったら・・・、いくら私が色んな図書館で探しても、見つかることなどない、ということです。

 

 

 

さて、上記したように図書館を舞台にした物語に『図書館戦争』がありますが、この原作は「図書館の自由に関する宣言」がきっかけで生まれた物語です。この「図書館の自由に関する宣言」は図書館に行くと目に付くところに貼られています。私はこれを知ってから図書館に行くと探すことにしています。

 

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著者有川浩さんの言葉↓

図書館という一見すると文系のおとなしそうな組織がこんなに勇ましい宣言を持っていた。今まで私が持っていた図書館に対するイメージと、この宣言に対するギャップ、それをそのままタイトルにしたっていう感じですね。だってこの人たち、事が起これば戦うよって宣言しているわけですから。その「戦う」っていう部分を極端化した物語が、『図書館戦争』なんです。

 

私がこの本について知った時真っ先に思い浮かべたのは焚書坑儒ですが、実際に映画の中で本が燃やされていく言論弾圧が行われ、またメディア規制まで登場し(焚書)、トップの命が狙われ(坑儒)、現代日本が彷彿とされる内容となっています。ただし実際にメディアが行っているのは報道しない自由という違いで日本ほどメディアが好き勝手に報道しない自由を謳歌している国はないと考えていますが、報道のしかたで人々が誘導されていることに違いはありません。最近悪質だなと感じているのは、皇室に関する報道です。それで日本は報道の自由のない国としてワーストランキングの方が高くなっていますが、その報道さえもまるで国が規制しているかのように報道しているという質の悪さ。

 

焚書坑儒というと、大陸の歴史の中の遠くの出来事のような気がしますが、終戦直後の日本でも行われ未だにそれが尾を引いているのが日本の現状であることは、ここ数年で多くの人が目の当たりにしてきたことでしょう。つまり実際は図書館の自由に関する宣言は宣言された時既にもう自由が侵された状態だったわけです。そうした焚書坑儒の様々なパターンをここ何年も、目の当たりにされ、そこに気づいた人たちが多くいると思います。またもや主要メディアは、こうしたことを取り上げず、そこに付け込んで取り上げているマイナーなメディアは、その内容から信用ならないバックボーンがあるのに、そこに取り入れられてしまっている人達がいます。人の弱みに付け込む活動は、いつの時代も盛んです。現代の大陸のニュースでは、ネットの統制がされて、なにか不都合な書き込みがされると、書き込みした人が特定されすぐに当局に連れ去られるなど現代的な焚書坑儒が行われているニュースが頻繁にあります。考えが違うからといって現代日本で坑儒をすればそれは犯罪ですが、そうした国よりも隠蔽され知られずにいる我が国のほうが闇が深いのではないかとここ数年考えています。ただ、秘密裏に捜査の手が進んでいて表に出ていないのだ、ということを信じたい気持ちもあるのですけれども。

※焚書坑儒=古代中国で起きた思想弾圧。(焚書=書を燃やす/坑儒=儒者を坑(穴)に生き埋めにする)

 

 

 

こうした現代に『図書館戦争』という物語が生まれ若い子を中心にベストセラーとなったことが、現在、若い世代を中心に目覚めている人達が増えている一因になっているのではないかと私は考えています。もちろんネットの普及などにより、あらゆる検索が容易になっていることも大きな一因でしょうけれども、こうした物語を知ったらなにかしらその影響が顕在的にも潜在的にも出てくるだろうと思うからです。こうしたことを含む様々な事が積み重なって、今の若い人達の思考を形作っているのだと思うと、これからの未来に希望が持てるのではないかと思います。

 

有川浩さんの原作は累計640万部突破のベストセラーで6巻までのシリーズ本となっています。そして原作小説は、漫画化、アニメ化、映画化され今もその人気は衰えていません。


あらすじ
2019年(正化31年)。
公序良俗を乱す表現を取り締まる『メディア良化法』が成立して30年。高校時代に出会った、図書隊員を名乗る"王子様"の姿を追い求め、行き過ぎた検閲から良書を守るための組織・図書隊に入隊した一人の女の子がいた。名は笠原郁。不器用ながらも、愚直に頑張るその情熱が認められ、エリート部隊・図書特殊部隊に配属されることになったが......!?様々な困難と出来事、そして、本を狩る組織・メディア良化委員会にひたむきに立ち向かう、郁を始めとする図書隊の面々。そう、すべては本と自由を守るため......。

 

ちなみに正化という元号は平成の元号が決まった時の候補の一つだったものが作中で使用されています。

 

実写化の際には、その前に行われていた登場人物になってほしい人気ランキングでトップとなった岡田准一さんと榮倉奈々さんがそのままキャストとなったのも話題となりました。映画は好評で、続編やミニドラマまで制作されました。

 

 

戦後の焚書坑儒で真っ先に狙われたのが教科書。子供たちに墨で消させた罪は大きい。最近、復刻が相次いでいますが、焚書する要素がほぼ皆無なのがわかります。

 

本書には、普段の生活態度や言葉遣い、一般的な冠婚葬祭や儀式のマナーや礼儀作法まで、日本で生活していく上で必要な礼法が余すところなく記載されています。こうしたことがきちんと教えられたなくなったことが、変で気持ち悪いお辞儀の普及に繋がっています。

 

 

これも修身の教科書の復刻版、これは当時日本に併合されていた国の民族の子供たちの絵。戦時中の本であってもいらぬ戦いを鼓舞するようなことは書かれず、平和を愛する民族であることを改めて確認する内容となっています。ただし、国を護るための言葉はそれとはまた別のことです。

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現在の教え方との差がわかりやすい『復刻版初等科地理』。地理は地政学を学ぶものとして作られた教科書で、当時の小学生はここまで学んでいたのか、と驚かされます。


ハート出版では教科書以外でも多くの本が復刻されています。

 

 

ハート出版以外にも復刻版の書籍が現在多くあります。その一つが大川周明の書籍群です。例えば復刻された『世界史』の半分は植民史となっており、なぜ焚書にされたのかがとてもわかりやすいです。

菊池寛にも発禁本がありました。

 

多くのGHQの焚書を復刻させているダイレクト出版

 

 

図書館に話を戻すと、図書館の新米司書が主人公の「夜明けの図書館」は図書館で働く人の仕事がわかりやすく、図書館の使い方としても読めます。7巻で完結です。

 

足利で生まれ育った私からすると図書館といえば足利学校です。県立足利図書館(平成28年4月1日からは市立)ができるまで、足利の図書館といえば足利学校でした。日本最古の学校と云われるだけあって古来から蔵書の多さで有名でしたが明治以降には旧蔵書の保管と共に一般蔵書も集め図書館として開かれた場所だったからです。現在でも古書での調べ物をする人が訪れる場所でもあります。ちなみに「学校」という言葉は、足利学校から始まっています。

 

 

『戦国の図書館』によれば、足利学校は戦国時代の代表的な図書館です。そしてその多くの図書は、君主や大名らが足利学校へ本を寄贈して成り立っていました。ではなぜそうした寄贈が必要だったのかといえば、足利学校の教育は「自学自習」が中心だったからです。足利学校に付属している文庫を各自が書き写すことによって知識を身につけ、意味が分からないことがあれば先輩や先生に質問して疑問を解決していくという自主性を重んじる勉学スタイルだったのです。そして足利学校はその蔵書の質が高いため都から離れていても人気があり、わざわざ遠方からも多くの学生が集まり、また信用されてもいたのです。

 

武田信玄がある易者を薦めた家臣の言葉に足利学校出身かどうかを尋ねた話は有名ですが、この信玄の言葉が実際にあったかどうかは不明でも、当時足利学校がそこまで信頼されていたということを物語るエピソードだそうです。足利学校の歴史を見ると、長い歴史の中で多くの人が蔵書についてどう考えていたかがわかります。例えば、足利学校を室町時代に再興したことで知られる上杉憲実は、政治的に自分の身が危うくなった時、その蔵書を護る為に足利学校へ寄贈しているのです。

 

知を護るということは、我々の未来を護るということです。世界の歴史をみれば●●主義社会では、学者や高等教育を受けたものから坑儒され、多くの本も焚書されていきます。そうした●●主義は過去のことではなく現在も浸透しているということに危機感を持つことが必要です。そして、●●主義は、人々の分断が大好きだということも。日本でまず狙われている分断はなんですか?一目瞭然ですが、皇室と国民の分断です。そしてその第一として皇室内の分断が狙われています。日々メディアやネット上を賑わせている皇室のニュース、話題は異様です。皇室は長い歴史の中で「シラス」ことを是としてきた我が国の柱です。そして、だからこそ狙われているということを我々国民は自覚する必要があるのではありませんか?今となっては、シラスことの核を担う図書館が記念日となっているこの日に、令和の御代替わりが行われたことには、こうした危機感を忘れないためにこの日になってしまったのかもしれないとも思えてくるのです。

 

『戦国の図書館』

本書の装丁に使用されているのは、『聚分韻略』上平・下平(慶長年間)国立国会図書館所蔵。

 

 

 

 

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