ここでいう祭日とは天皇がお隠れになられた(崩御)日、一般に言う命日を現在の暦にあてはめた日で天皇の祭日は重複日があるため年間102日となっています。宮中祭祀では初代神武天皇祭と先帝祭として先帝以前三代の天皇の例祭が崩御された当日に行われていますが、それ以前の御歴代の天皇・皇后・皇親については沢山いらっしゃるため、春季皇霊祭、秋季皇霊祭(春分の日・秋分の日)にまとめて霊をお祭りされています。皇居には、宮中三殿があり、その一つ「皇霊殿」は御歴代の天皇、后妃、皇子女などの御霊がお祀りされています。なお崩御後100年以上になると、100年毎に大祭として当日のお祭りをされる式年祭があります。また式年祭の年でなくても、祭日には天皇陛下の毎日の宮中三殿への御拝(代拝)があるのかもしれません。

 

第三一代用明天皇は、和風諡号では橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)、大和時代といわれる頃の天皇です。今は古墳時代ともいわれますが、古墳時代とは原始的な響きにさせるためにわざと呼ばせているようで、古来から呼ばれていた大和時代のほうが相応しいのではないかと思います。


御名は橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)。


御父は欽明天皇の第四皇子、御母、蘇我堅塩姫(きたしひめ)。


堅塩姫は蘇我稲目(いなめ)の娘でしたので、初の蘇我系天皇の即位でした。以降、同母妹の推古天皇までの三代四三年間、蘇我系の天皇が続くことになります。

 

皇后は穴穂部間人皇女、欽明天皇の第三皇女であり、用明天皇の異母妹です。また皇后の御母は蘇我小姉君であり、堅塩姫とは姉妹となります。さらに穴穂部皇子、泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)は同母の弟です。

 

欽明天皇から推古天皇までの流れがわかりやすい動画。なお、古代は異母兄妹の婚姻は普通に行われていましたが、同母兄妹の婚姻は禁止されていました。


異母兄の敏達天皇の崩御を受け即位。

 

用明天皇の治世では、仏教を排斥しようとする物部氏と積極的に取り入れようとした蘇我氏の対立が激化した時代でしたが、天皇として初めて仏教受容の意思を明らかにしました。それが後の仏教隆盛に繋がっていきます。

 

用明天皇の皇子には厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのおうじ)=聖徳太子がいます。用明天皇は1年半の短い在位で病気の為崩御されてますが、もっと在位が長ければ聖徳太子が天皇になっていたかもしれない、とも言われています。

 

用明天皇二年(587年)病のため崩御。わずか2年の御在位、実質的には約1年半、しかも病の期間もあり天皇としての印象が薄い天皇ですが、仏教黎明期に崇仏派で仏教を重んじたことで、御在位期間が短いにもかかわらず歴史に名前を残されました。

 

もし御在位期間が長かったならば、聖徳太子が天皇となられていたことは確実であったろうとも言われていますから、その後の歴史も大きく変わり、皇位を争う戦も起きていなかったのではないかとも思いますし、公式には現在日本初の女帝といわれている推古天皇が登場することもなかったかもしれません。※推古天皇以前に女帝だったのではといわれる方や以前は女帝とされていた方がいます。

 

 

御陵は河内磯長原陵で、大阪府南河内郡太子町にあります。後にその北側に聖徳太子の霊廟も造られました。

 

 

なお鵲森宮(かささぎもりのみや)は、用明天皇、穴穂部間人皇后、聖徳太子が御祭神となっている神社です。用明天皇の次の崇峻天皇の時に、物部守屋との戦いにのぞみ聖徳太子が必勝祈願をされ、勝った暁には四天王寺を作ることを誓われました。そして、その戦いに勝利したのでまず両親の用明天皇と穴穂部間人皇后を神としてお祀りされてから四天王寺を創建されたのです。ですから四天王寺は元はこの神社にあったとも言われています。

 

 

 

四天王寺といえば、その創建のために活躍した金剛組が知られており、四天王寺のすぐそばに会社がある世界最古の企業としても有名です。以前DISCOVER JAPANでは、その金剛組へ取材した版がありました。

 

参照:
「宮中祭祀」展転社
※祭日の日付は上記から、しかし旧暦の関係か崩御日が違います。
「旧皇族が語る天皇の日本史」PHP新書

 

用明天皇は日本書紀の時代の天皇です

 

 

 

聖徳太子についての動画を集めたブログ。検索するとこの他にもたくさんの動画があります↓

 

 

 

 

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