貞明皇后は上皇陛下の皇祖妣(御祖母)であらせられます。

 

貞明皇后は、宮中で掌典長を務めていた公爵九条道孝の四女としてご誕生されました。九条家は五摂家の中の一つの家系でしたがちょうどこの頃華族令が出され摂家は全て公爵となっていました。なお、ウィキによれば貞明皇后を通して現皇室は織田氏、浅井氏、豊臣氏、徳川氏の血を受け継がれているとの事。

 

御名は節子(さだこ)。

 

節子姫は、明治十七年(1884年)六月二十五日誕生し、生後七日で高円寺村の豪農に里子に出されました。これは当時里子に出せば子供が健康に育つと考えられていたからだそうです。そのお陰か病気一つされず健やかにお育ちになり、四年後九条家からの迎えが来て実家に戻られた後、女学校に入ってからも夏休みにはこの家に来て泊まったそうです。

 

皇太子嘉仁親王の妃になることが決まったのは十六歳の時でしたが、皇太子は御幼少の頃から病弱であったため、特に健康で元気な方が選ばれたと伝わっています。

 

婚約が正式に決まったのは明治三十三年二月十一日で(1900年)結婚式は五月十日でした。後の大正天皇となる皇太子は二十二歳、皇太子妃は十七歳でした。このとき、宮中の歴史において初めて皇居内の賢所(神殿)の前で御婚儀が行われました。

 

この結婚は国民的祝賀行事になり、各地で記念の桜が植樹されました。日本のシンボル桜という概念は、この頃定着したといいます。また国民が皇室にならって、神前式結婚式を望むようになり、神前の結婚式が一般に普及するようになったのも、このあとからでした。それまでは各家で結婚式は挙げられていたのです。その始まりとなったのが東京大神宮であり、一般の神前結婚式をした東京大神宮は今では縁結びの神社としても有名となっています。

 

 

 

また大正天皇の時代から側室を置かず一夫一妻を貫き、大正天皇と貞明皇后は現在の家族の形の見本となられました。

 

この結婚生活は皇太子の健康上にも良い影響を与えたと言われ、また子宝にも恵まれて第一皇子(後の昭和天皇)を始め四人の皇子が誕生されました。大正天皇は子煩悩でも知られ、幼い皇子達と一緒の写真が有名です。この皇太子時代の大正天皇は健康面も含め一番幸福な時代だったとよく言われますがそこには皇太子妃の貢献があったのだと伝わります。

 

明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御され皇太子が即位され天皇となられました(大正天皇)。皇太子妃も皇后となられ、年号は大正と変わりました。しかし政務が多忙になったことからだんだん大正天皇も体調を崩されるようになっていきます。また大正時代は第一次世界大戦が勃発するなど激動の時代の始まりの時期でもあり、そのような時代の天皇であられた責務が大正天皇の容態の悪化を進めたともいわれています。

 

立太子礼を終えた第一皇子の裕仁親王は18歳で婚約され、また欧州への外遊へ出かけましたが、その帰国後皇太子が摂政に就くことになります。そのような皇子の成長を見ることは皇后にとって喜ばしいことだったかと思いますが、大正天皇の看病に明け暮れる心労は大きかったかと思います。この頃大正天皇に替わり、また若い皇太子のため皇室を取り仕切られていたのは皇后でした。

 

しかし、大正天皇は健康に戻られることなく大正十五年十二月二十五日(1926年)崩御されました。皇太子が即位し(昭和天皇)、元号も昭和となりますが、大正時代以上に激動の時代となっていきます。皇太子妃が立后されるのに伴い皇太后となられた皇后は、25歳の若い天皇の支えとなっていきました。

 

戦争中には、御用邸の焼け跡に芋畑を作り先頭になって農作業に励まれたといいます。また終戦後、譲位を考えていた昭和天皇を叱咤激励されたのも皇太后だと伝わります。

皇霊殿に陛下をお招きになり高い位置にある皇霊殿から見える東京の市中を陛下にお見せして「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。譲位は絶対になりません!」

 

 

昭和天皇は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。どうしたらいいのかと。そしてこれが日本全国にわたる行幸の始まりとなり、最初に広島を選ばれたのです。

 

人々の歓声に圧倒される広島行幸

 

病弱な大正天皇と明るい家庭を作り皇室の近代化を進めた皇太后は、若く孤独な昭和天皇をも支え見守られたのです。

 

昭和天皇が即位されてから、昭和天皇へのお使いをよく出されたそうですが、その口上は必ずその場に立ち上がりその場に陛下がいらっしゃるように姿勢を正しておっしゃったそうです。そして、そのお使いが戻ってきてお返事を聞く際にも同様にされたと、長く皇太后にお仕えした坊城俊良氏が「宮中五十年」に書かれています。

 

 


『天皇家百五十年の戦い』には、皇室には終戦時御料林などを含めると当時の貨幣価格で約37億円の財産があったと書かれています。巨大な皇室財産があったからこそ明治天皇や昭憲皇太后の福祉事業が可能であったと。ところが戦後は皇室財産の大半が国庫に入れられたため、皇室がいくつもの福祉事業を財政的に庇護し支えることは出来なくなりました。

 

上記『宮中五十年』には、貞明皇后がそうした役に立てるために御自身の御生活上の費用はできるだけ切り詰めていたと書かれていますが、それは戦後ではなく戦前からの話なのです。例えば、ライ患者やその救護事業に尽くしている人々へしばしば御下賜金や、御下賜品があったことなど、貞明皇后の思し召しがあったことが、それまで政府が救ライ費用に相当の予算を計上しようとしても思うように進捗しなかった国庫支出の国会の協賛を進めたのだといいます。

 

戦後も雨漏りのする防空壕の中での生活を続け、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られました。

 

昭和二十六年(1951年)五月十七日狭心症のため崩御。その日青山東御所の清掃に来ていた人々に挨拶されるため準備をしている時だったそうです。

 

六月八日に貞明皇后と追号され、大喪の儀は六月二十二日に行われました。

 

御陵は、多摩東陵、大正天皇の多摩陵の並びにあり、大正天皇と同じく御歴代の皇后の中で初めて関東に御陵ができた皇后となりました。

 

 

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目の前には皇后のお印であった藤棚があります。白藤です。昭和天皇誕生日には毎年お参りしていましたが、その頃がだいたい白藤が咲く時期で、下の写真も以前撮影したものです。

 

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昨年は、貞明皇后に関する企画展に続けて2つ行ってきました。杉並区立郷土博物館で行われた「大正天皇の后 貞明皇后展」と港区郷土歴史館で行われていた「ある図案家の仕事 宮中の染織デザイン展」です。両方とも歴史ある建物なども見ることができて立地も素晴らしい企画展だったのですが、展示されていたものも印象的なものが多く充実していました。双方ともに貞明皇后がお召しになられていたドレスや着物が展示されていて、特に大正天皇が崩御された後は、黒いドレスしかお召しにならなかったことが有名ですが、そのドレスも真近で拝見することができました。また奉納のために作られた着物の展示もありとても美しかったです。写真で見るのと実物を見るのでは、受ける印象は全然違いますから、この企画展を見逃さずに行けて本当に良かったです。ま杉並区は貞明皇后が幼い頃里子に出された家のあったところということで、当時の家の写真などもありました。だからこそ、貞明皇后展は杉並区立郷土博物館で行われたというわけです。

 

 

こちらでは、普段近くで見ることなどできない錦の御旗を見ることもできて感激しました。

展示会の概要↓

港区に長年居住した中山冝一(1884-1970)は、富山県立工芸学校図案絵画科一期生として入学し、卒業後は上京し図案家として活動します。中山が晩年に自身で作成した図案帖『國華』には、髙島屋から委嘱を受けて手掛けた宮中の室内装飾、お好み裂、貞明皇后・香淳皇后の袿やドレスなどの図案、下図、写生画が収められており、当時の宮中の染織品にかかわるデザインが生まれる過程を知ることができます。この『國華』を中心に、ひとりの人物が図案教育を受け、図案家として仕事をしていく過程を、同時代の動向もふまえながら紹介します。

 

 

なお、東京大神宮は私の仲の良い従妹が結婚した場所で、神前結婚式を初めて傍で体験した神社ですが、その従妹は二人の子供に恵まれ20年以上経った今も夫婦円満です。またここの親族控室には伊藤博文の直筆の額があって驚いたことも記しておきます。今もあるかどうかはわかりませんが、当時歴史上の人物の直筆の書がそんな場所にあるとは思いもよらなかったのですごく驚きました。しかし、今になってみれば、大正天皇にランドセルをプレゼントしたなど縁の逸話がたくさんあるのですから不思議ではないわけです。

 

上記東京大神宮のHPにある神楽舞の衣装、初めてこれを見た当時まだ若かった(といっても全然若くなかったけど・・・)私は笑いが止まらなくなり、抑えるのに苦労してしまったのは今では笑い話です。隣にいた年下の従妹も笑いをこらえていて二人とも目を合わせたら吹き出しそうで、顔を見ないようにしたものです。今思えば失礼千万ですよね。しかし当時いきなりこの衣装を見たのは衝撃的だったんです。巫女さんて白と朱のイメージしかありませんでしたから。ほんとうに無知でしたし、神社もお祭りについても知りませんでした。ただ私の記憶の中ではカマキリのような衣装だったんですが、これはどうみても蝶ですよね。頭に別の被り物をしていたような気がします。花ではなくて触角みたいなものだったような・・・。私の記憶ではカマキリだったから笑いが止まらなかったんだと思っていたのですが( ^ω^)・・・。衣装変わったのかな?いずれにしても、今では、神楽舞を見るたびにありがたくこうした衣装などを楽しんでいます。

 

東京大神宮は、都内でお参りしやすいエリアにあるためよくお参りする神社の一つですが、毎回本当に参拝客が多いと感じている大人気の神社です。

 

 

 

 

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