私が子供の頃、週末にドライブに連れて行ってもらうことが多くありましたが、印象に残っているのが平家の落人村があったとされる福島へのドライブでした。ただし、中学生になっても京都への修学旅行で現代的な街並みを見てガッカリした外国人みたいなマインドを持っていたので、当時小学生だった私はどこにも平家の落人を見つけられずがっかりした馬鹿な子供だったんですけれど。それでも平家の落人村が福島にあったんだ、ということだけは記憶に残りました。地名などは全然覚えていなかったのですが、すっかり忘れていたので検索するとすぐ名前が出てきたのが檜枝岐村です。

 

 

また「耳なし芳一」の話も怖いながらも印象が強くて、壇ノ浦の戦いは関ケ原の戦いや川中島の戦いと同様、子供の頃からなじみのある戦いでした。国史の中でいえば、近代以前、壬申の乱、源平の戦い、そして関ケ原の戦いが、日本の歴史を変えた大きな戦だと思います。しかし、以前はそうしたことがあったということを、いつ起きたことか?なんてあまり考えることはありませんでした。今、実際にいつ起きたということを考えるようになってから、この時期はとても水が冷たかっただろうとか季節観や自然観などとともに現実的に考えるようになりました。

 

本日は旧暦の3月24日ですが、壇ノ浦の合戦は元歴二年/寿永四年三月二十四日(1185年4月25日)に起きています。源平の戦いで、西に逃げ延びた平家一門が滅びたとされる戦いです。この時、平清盛の孫にあたるまだ幼い安徳天皇も平家と運命を共にしました。本日は、安徳天皇の祭日に当たりますが、これは祭日が新暦で固定された日であるために、旧暦と本日は重なっているわけです。

 

安徳天皇といえば、一緒に沈んだ三種の神器が有名です。ただし、平家と一緒に沈んだ本物は八尺瓊勾玉だけで、鏡と剣は形代です。鏡と剣の本物はそれぞれ伊勢の神宮と熱田神宮にあり、今も変わりません。これ重要です。ただし、形代といっても本物同様に扱うのが形代でもあります。そして三種の神器なしに即位された後鳥羽天皇は、何度も剣を探させたと伝わります。

 

 

 

神剣のなかったことがコンプレックスになったといわれる後鳥羽天皇は後に刀剣造りをご自身で行われるほど刀剣にのめりこんでいきます。そうしたことが、日本刀の技術の向上に繋がっていきます。現在多くの人が刀剣に興味を持ち、多くの物語も生まれていますし、現代技術に刀剣技術が生かされていることも知られています。こうした刀剣の技術発展が現在まで大きく影響を与えているのですから、歴史の繋がりって面白いです。

 

 

 

なお、もっと昔の話、本物の神剣が盗まれた後、一時宮中に置かれた後に熱田神宮に戻ってきた歓びの祭りが5月4日にあります。こうしたお祭りが今も続くことからも、神剣が熱田神宮に今もあることがよくわかるのではないでしょうか。

 

昨年のオホホ祭りの様子

 

安徳天皇は青森から徳島や対馬、硫黄島など、全国各地に落ち延びた伝説があります。幼くして亡くなったことから、様々な伝説が生まれたのでしょう。龍神の生まれ変わりだった、あるいは女性だった説まであります。平家落人伝説も含め、それだけ当時の人々の心に残ったということなのでしょう。現代に生きるものとしては、二度とこのような悲しい伝説が生まれないよう願うものです。

 

安徳天皇の様々な伝説も記されている『異説・逸話の天皇列伝』

 

 

 

 

 

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