本日は、退位と譲位の逸話が有名な天皇の祭日が重なっています。


第六十五代花山(かざん)天皇は、平安時代の天皇です。

 

御名は師貞(もろさだ)。


安和元年(968年)生。


御父は冷泉天皇、御母は藤原懐子(かいし/かねこ)。

 

在位、永観二年(984年)から寛和二年(986年)。

 

冷泉天皇の第一皇子である師貞親王は、叔父円融天皇の即位と共に生後十ヶ月足らずで皇太子になりました。これは、外祖父の藤原伊尹が摂政だったからです。

 

しかし藤原伊尹は、師貞親王が十七歳で円融天皇の譲位により即位したときにはすでにこの世になく、弟の兼家の時代になっていました。そしてこの時、兼家の外孫にあたる円融天皇の第一皇子、懐仁(やすひと)親王が五歳で立太子されました。


兼家は懐仁親王(次の一条天皇)を早く皇位に着けたいと望んでいました。花山天皇は即位の年に入内した藤原忯子(しし)を寵愛していましたが、翌年子供を宿したまま薨去してしまい大変悲しまれました。そこで兼家の三男の道兼は一緒に出家しましょうと花山寺に導いて花山天皇を出家させ退位させてしまいました。しかも自分はそのまま逃げ帰り、天皇は欺かれていたのを知りました。これは寛和の変といわれている事件です。紫式部が主役の現在放送中の大河ドラマでも描かれているようですが、紫式部の父の藤原為時は花山天皇に仕えていたことからこの後、長く出世が途絶えることとなります。

 

安倍晴明ファンでしたら、これを止めようとし間に合わなかったというような逸話を読まれたことがあるかもしれませんが、皇太子の時代に那智山の天狗を封ずる儀式を行ったことから花山天皇の信頼を得て、次の一条天皇や藤原道長の信頼も集めるようになったといいます。

 

花山天皇は出家した後は仏道に励み諸国を巡礼し、また建築・和歌にユニークな才能を発揮したとも伝わっています。

 

 

この頃詠まれた歌

 

木のもとを
すみかとすれば
おのづから
花みる人と
なりぬべきかな

 

これは修行の身となったら花を見るということからは無縁でなくてはならないはずなのだけれども、木の下にいるとやはり花を愛でてしまった、ということを否定的ではなく肯定的に詠まれているようで、そこから花山上皇の人となりも推察できるのではないでしょうか。

 

後の世の西行は花山天皇が修行した庵室跡の前に桜の木があるのを見てこの歌を思い出し、やはり一首詠んでいます。

 

木のもとに
住みける跡を
見つるかな
那智の高嶺の
花を尋ねて


花山天皇は退位の話も含め多くの逸話が知られており、平安時代を知る上でも興味深い天皇です。

 

藤原氏全盛期の逸話が多く書かれている大鏡

 

寛弘五年(1008年)崩御。


御陵は紙屋川上陵、京都市北区衣笠北高橋町にあります。

 

晩年に巡礼から帰京されるまでの十数年間、隠棲生活を送られた花山院があり、その名前が崩御の後追号されました。ここは今では花山院菩提寺として西国三十三所巡礼の番外霊場となっています。

 

第百十一代後西(ごさい)天皇は、江戸時代の天皇です。

 

御名は良仁(ながひと)。


寛永十四年(1638年)生。

 

御父は後水尾天皇、御母は櫛笥隆子(みくしげたかこ)。


在位、承応三年(1655年)から寛文三年(1663年)。


後水尾天皇の第八皇子である良仁親王は、はじめ叔父(後陽成天皇の第七皇子)の高松宮家を継ぎましたが、後光明天皇が皇子のないまま崩御されたためと後光明天皇の養子になっていた織仁親王がまだ生後間もなかったため、織仁親王が成長するまでの中継として十八歳で皇位を継がれました。


この頃は徳川第四代家綱の時代です。


在位中、江戸では明歴の大火(振袖大火)があり、その翌年も大火、また数年後に伊勢神宮が炎上、諸国では大地震や大洪水が起きるなどの天変地異が続きました。そのため、これは天皇の行跡が良くないからだと後水尾上皇と幕府の両方からうながされて、在位十年で譲位されたといいます。しかし近年では天皇自らの意志で譲位されたとの説もあります。

この時幕府の威を背景にして後西天皇へ譲位を迫ったのが吉良上野介で、朝廷では不快感を抱かれていたようです。二代後の東山天皇の時代に幕府へ派遣した勅使の接待役の赤穂の浅野内匠頭が上野介への刃傷事件を起こした時、帰洛した勅使及び院使らを参内禁止処分にしたのは、事件後なんの介入もなしに、浅野内匠頭や浅野家を見殺しにしたからだといわれています。


御在位中には、徳川光圀が「大日本史」の編纂に着手し、その四年後に水戸家第二代藩主となっています。


後西天皇は書に優れていましたが、即位の頃は見苦しい字で末代までの恥と燃やされてしまったほどだといいます。また、文芸の他に茶道・華道・香道にも練達していたそうで、和歌も好んで詠まれたそうです。

 

その中かから一首

 

神のめぐみ
仏のをしへ
二つ無く
ただこの國は
この道ぞかし


貞亨二年(1685年)崩御。


天皇は兄と甥(実際は弟)の間にあって中継ぎのために在位し、その子孫を皇統に残すことができなかったため、同じような立場だった淳和天皇の異称「西院帝」から「後西院」と追号されました。明治になり院号の天皇も全て天皇号をおくった時に「後西天皇」となりました。

 

御陵は月輪陵、京都市東山区今熊野泉山町、泉涌寺内にあります。

 

災害や天変地異が起きると御歴代の天皇はひたすら祈られました。それは元々天皇は宮中祭祀で祈られる御存在だからです。だからこそ、ご自身の御代に何かが起これば自らを省みてご自身の祈りが足らないのではないか?ご自身が不徳ではないか?と責任を感じられるわけです。そして宮中で自ら祈られるだけでなく日本中の寺社にも祈りの経文を奉納しており、例えば戦国時代の後奈良天皇は宸翰の般若心経を25か国に奉納されています。また平安時代の清和天皇は天変地異が続いたのちに譲位され出家し激しい苦行をされています。そしてその三代後の宇多天皇の時代に四方拝が儀式として定着されるきっかけとなりました。

 

現在、天変地異が起きたからと君子を責めるような時代ではありません。しかし、それでも天皇が祈られる御存在であることに変わりありませんから、令和になってから世界が、時代が、大きく変わるようなことが続き、また今年は元旦から大きな災害等が続いて、今上陛下は御歴代の天皇同様にひたすら祈念されていらっしゃる、とありがたく考えています。

 

祈りには不思議な力があると東日本大震災以降、考えるようになりました。言霊、言葉の力というものがあるからです。ひたすら祈ったら、その祈りに従った行動を人は行います。多くの人が祈ったら、その祈りに反する様な行動は減るのではないでしょうか。祈りとは宗教ではなく、ある意味人々の考え方姿勢の象徴なのだと思います。世の中が大きく変わる時、多くの人の姿勢が変わっているということなのではないかと思えます。それもまた言霊の表れではないか、と。

 

 

参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
「歴代天皇で読む日本の正史」
他      

 

 

般若心経に曲がつけられ世界中で人気となっているのは今の時代から求められたものだからだと考えています。薬師寺寛邦 キッサコ

般若心経をやさしい詩にして歌われたもの、薬師寺寛邦 キッサコさん

 

 

 

 

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