君が代は作者不詳といわれていますが、実はその君が代を作った人の逸話があります。

 

平安京(京都)に遷都した桓武天皇の曾孫、文徳天皇の頃のことです。

 

文徳天皇は更衣の紀静子が生んだ第一皇子の惟喬(これたか)親王に期待をかけていましたので、皇位も惟喬親王に譲りたいと考えていました。


ところが伯父の藤原良房は、娘の明子(あきらけいこ)が第四皇子惟仁(これひと)親王を生むと、生後八か月で立太子させてしまいます。


それでも文徳天皇は、惟仁親王はまだ幼いので惟喬親王に譲位して、その後惟仁親王に譲位するということを考えられましたが、惟喬親王の身の上を案じられて断念いたしました。


実は文徳天皇御自身が皇位争いで廃太子となった恒貞親王の代わりに即位することになったのですが、その政変の承和の変は、恒貞親王の後ろ盾であった淳和上皇と嵯峨上皇が立て続けに崩御したために起きたものでした。

 


そしてその政変で勢力を拡大したのが、伯父の藤原良房だったのです。良房は、自分の甥である文徳天皇を即位させました。


そのような状況でしたから、後ろ盾が弱い惟喬親王のことを考えると、文徳天皇は惟喬親王への譲位を断念するしかありませんでした。そのことにより、政変が起こされたり、あるいは陰謀に巻き込まれてしまうのを恐れたのです。


惟喬親王が元服をして四品に叙せられてほどなく文徳天皇は三十二歳の若さで崩御されました。


惟喬親王は大宰権帥に任ぜられたのを始めに各地を歴任します。しかし病になると出家して隠棲してしまいました。まだ20代後半のことです。


その後、その隠棲中に周辺の人々に伝えたといわれるのが木工技術です。


そのため各地の木地師に惟喬親王を祖とする伝承があります。


滋賀県にある木地師のふるさとでは惟喬親王がこの地に隠棲した折、轆轤(ろくろ)で木地を加工する技術を編み出したのが木地師の始まりとされており、木地師発祥の地としています。そこにある金龍寺は惟喬親王が創建したと伝わり高松御所と崇められたとのこと。

 

 

そしてそこには、惟喬親王が祀られた大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)もあります。惟喬親王は天皇にはなれませんでしたが、木地師の神様になったのです。

 

ここから分祀した神社の中にはそのまま小野宮惟喬親王神社という神社もあります。小野宮は惟喬親王が隠棲した宮といいます。

 

また京都にある惟喬神社は臣下や村人たちが、親王の徳を永遠に奉祀するために出来た神社といわれています。

 

惟喬親王は天皇にはなれませんでしたが、おかげで政争に巻き込まれずにすみました。そして、民衆の中で慕われ崇められ神様になったのです。

 

そして、木地師が仕えていた惟喬親王を慕って作った歌が君が代と伝わっています。

藤原朝臣石位左衛門が仕えていた惟喬親王に詠んだ歌

石位左衛門は惟喬親王の命で木材を探し求め、良材のある(現)岐阜県に(現)滋賀県から移り住み、京都や惟喬親王の住んでいる滋賀県を行き来している際に、さざれ石をみつけ、それを歌って惟喬親王へ捧げたのです。その歌が、君が代でした。『古今和歌集』に採録されるとき、石位左衛門は身分が低かったためよみ人知らずとされましたが、この歌により位を賜り、石に関連があるとして改名したのが「石位左衛門」という名前です。

 

伊吹山のふもとにあるさざれ石公園

 

さざれ石公園と藤原朝臣石位左衛門の両方を知ったきっかけの動画。このブログでは、君が代動画を毎日アップしていた時期があって、その時みつけました。いつか伊吹山とセットで行きたいと考えながら未だ実現していません・・・。

 

天皇になれなかった惟喬親王は失意の日々を送ったと伝わりますが、最初は失意の日々だっとしても晩年は幸せだったのではないかと思います。文徳天皇が惟喬親王に期待されたのは間違いなかったのです。そして文徳天皇が譲位を断念されたおかげで、惟喬親王の才能は生かされたといえます。皇子や親王として生まれたがために、後継争いや政争に巻き込まれ、非業の人生を送られた方がたくさんいらっしゃいます。それを考えても、惟喬親王は幸せだったと思うのです。

 

そして、その惟喬親王が木地師の神様と慕われるような存在だったからこそ「君が代」は生まれ捧げられたのでしょう。君が代は、二重、三重にも、長寿と繁栄を祈る歌、言霊歌です。そして考えてみれば、その通り、「君が代」を歌い続けてきた我が国は、神話から続く国としての長寿国となり、また、物づくりの国としての地位も揺るぎありません。まさしく惟喬親王に捧げられた歌のとおりの国になったともいえるのではないでしょうか。

 

天皇の歴史をたどると、多彩な人材があることに驚かされます。日本の歴史は面白いです。


本日は旧暦2月20日ですが、寛平九年二月二十日(西暦897年3月30日)惟喬親王は薨去されました。惟喬親王墓は滋賀県東近江市箕川町にあります。

 

参照:歴代天皇で読む日本の正史

 

 

私の頭の中では、惟喬親王は伝統工芸を気にかけていた春馬君で脳内再生されています。

 

伝説となった甲子園での野々村彩乃さんの君が代

野々村さんは今ではソプラノ歌手です

神職でもある歌手、涼恵さんの歌う君が代は角松敏生さんプロデュース

 

 

「入学(社)式」を加えた内容に変えました↓

 

 

 

 

 

 

 

 

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