第八十八代後嵯峨天皇は鎌倉時代の天皇です。後嵯峨天皇の二人の皇子により、朝廷は二つに別れていきました。これが南北朝時代、また後南朝まで続く200年に渡る大乱の原因となっていきます。
承久二年(1220年)生。
御名は邦仁(くにひと)。
御父は土御門天皇、御母は源通宗の娘通子。
在位、仁治三年(1242年)~寛元四年(1246年)。
土御門天皇の第三皇子の邦仁王は、承久の変で父が自ら土佐に流された時は二歳で、母の叔父や祖母のもとでひっそり暮らしていました。二十歳を過ぎても元服せず出家する予定だったのです。ところが四条天皇がわずか十二歳で突然崩御され皇子女がなかったので、鎌倉幕府の推薦により即位することとなりました(後嵯峨天皇)。
土御門上皇は承久の変には反対で後鳥羽上皇を諌めていたことや、幕府が罪を認めず必要ないと断っても自ら配流を申し出て配流されたので、幕府は配流先で厚遇していました。朝廷の実力者九条道家は次の天皇に、承久の変でやはり流された順徳上皇の皇子を推していましたが、幕府としては土御門上皇の皇子の方が安心だったのです。
後嵯峨天皇は在位四年で四歳の皇子、久仁親王に譲位(後深草天皇)し、院政を開始しました。ところが後深草天皇はひどく小柄で足腰の発育が普通ではなかったのです。そこで健康な同母弟の恒仁親王に両親からの期待が高まり、後嵯峨上皇は後深草天皇が十七歳の時弟への譲位を迫りました(亀山天皇)。しかも後深草天皇に皇子がいるにもかかわらず、皇太子に立ったのは亀山天皇の皇子でしたので、後深草上皇の鬱憤がたまっていくこととなります。
ここで思い出すのが、この構図が鳥羽天皇に譲位を迫られた崇徳天皇が、次の近衛天皇が若くして崩御された後、自分の皇子が即位することを願っていたのに、同母の弟である後白河天皇の皇子に皇統を継がせるため後白河天皇が即位された経緯に似ていることです。これが後に保元の乱へと繋がっていき、崇徳天皇は崩御された後、平安最大の怨霊となったとされました。
後嵯峨天皇は幼い時に父君と別れ、皇統とは関係ないと思われて育てられたため、そうした過去の因縁についてきちんと教わらなかったのかもしれません。祖父の後鳥羽上皇のその祖父であった後白河法皇が怨霊の慰霊のために色んなことをされたのに、ほんの数世代でこうした因縁が繰り返されたのはやはり身近にこういうことをきちんと教える人がいなかったからではないかと考えられます。
文永五年(1268年)出家し法皇となり、その四年後の文永九年(1272年)崩御。
後嵯峨天皇崩御後、兄弟は治天の君をめぐって争い、朝廷は二つに別れました。これが後には南北朝へと変わっていくことになる争いの始まりでした。
後嵯峨法皇が崩御された時、後嗣が定められていなかったため、亀山天皇の兄であった後深草上皇との確執が生じたのです。亀山天皇が8歳の世仁親王へ譲位された後(後宇多天皇)、その仲介を鎌倉幕府が行い等しく皇位を伝えることが確定(両統送立)したため、後宇多天皇は後深草上皇の皇子である23歳の煕仁親王に14年後譲位されました(伏見天皇)。しかしこのような二つの系統で交互に譲位を続けて行くことは互いの不信と不満を招いていくだけだったのです。
後嵯峨天皇は嵯峨天皇の名前に加後号し遺詔していましたが、その子である後深草院は嵯峨天皇の皇子であった仁明天皇の異称に加後号したものを遺詔しており、弟ばかり優先された兄の悲しさが加後号にまで現れています。後仁明ではなく異称の後深草を選んだのがよけい悲哀を誘うのです。
後深草天皇の同母弟の亀山天皇は加後号ではありませんが、父の後嵯峨天皇が嵯峨野に建造した離宮の亀山殿を伝領しており、嵯峨の地を残された後嵯峨の後継者として亀山と遺詔しています。これは先に崩御された兄の加後号から、意地をみせ違う形で皇統の正統性を主張したのかもしれません。これは、後白河天皇が加後号で正統性を主張しているのと重なります。しかし、兄弟揃って崩御後も後継の正統性を主張したことは、その後も子孫が争い続ける禍根となったかもしれません。皇統が二分し後に南北朝にまで分かれる根深さが親子の天皇号からも見えてきます。
しかも親子が加後号にした嵯峨天皇が中心となって弟と我が子と交代での皇位継承を行っていたことが、後嵯峨上皇の皇子達である持明院統と大覚寺統の両統送立での皇位継承の先例になっています。後嵯峨天皇にそこまでの意識があったのかどうかわかりませんが、その存在で時代を平和にしたと伝わる嵯峨天皇の時代を考えると、歴史は皮肉な巡り合わせをするものです。
御陵は嵯峨南陵、京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町、天竜寺内にあります。
京都の嵐山にある車折(くるまざき)神社の社名は、後嵯峨天皇が嵐山に遊行した際、社前で牛車の轅(ながえ)が折れ、動かなくなったことから、ご神威を畏れ、門前右側の石を「車折石」(くるまざきいし)と呼んで、「正一位車折大明神」の神号を贈られたことに由来します。そのことから石に対する信仰篤く祈念神石が信仰を集めパワースポットとして今も人気があります。
参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
今上陛下は126代目ということで御歴代の天皇は125代様々なご関係やその後の影響をみることができます。つまり私達日本人は御歴代の天皇について知るだけで様々な人間関係の教訓を学ぶことができます。御嵯峨天皇と二人の皇子の関係は、例えば伊達政宗兄弟と母の関係、織田信長兄弟と母、徳川家光兄弟と親子あるいは賢明な祖父家康との関係まで含めると親として、これから親になるものへの教訓にもなるかと思います。なぜなら兄弟の諍いの原因は根本的には親との関係から生まれているからです。人をそれまでの意志に反した行為に引き込むとき、不遇だと感じている人が一番引き込みやすいといいます。不遇の状態にあると感じると不満が生じてしまうからです。歴史上大きな事件が起きた時不遇だと感じていた人がそこにいたのか?と思ってみると、符合することがなんと多いことか。だからこそ、不遇な状態になるような人を作りださないようにすることが教訓であることがわかってきます。またそうしたことまで含めて書かれていたのが十七条憲法です。しかし、教えがあってもこうしたことは繰り返されてきました。だからこそ、教え続けなくてはいけないのだと思います。それにしても普遍の十七条憲法は本当に凄いと思います。またこうしたことを踏まえて明治時代に教育勅語も作られたのでしょう。教育勅語は海外の人達にまで賛美されたものですが、戦後日本では忌まわしいもののように教えられないようになってきました。しかし、教育勅語を逆にしてみればそれがいかに馬鹿らしいことかわかります。また教育勅語にある公益を考えることは、公だけに限らずそれが翻って自分に返ってくるものです。
昨年興奮と歓喜の中終了したワールドベースボールクラシックで世界中の人を感嘆させた、メンバーとファンの人間性や、大災害が起きるたびに世界の人々を驚かせる多くの日本人の習性は、長い間に先人達が培ってきたものが我々日本人に身についていたからできたことであり、我々の普通にできることをいかに世界の人達ができないか、を物語っています。こうしたことを意識せずともできる国であることを誇りにしてもいいのではないでしょうか。戦後きちんと教えられることがなくなっても、世界各国に比較すれば良識のある民族としていられるのは、そういう風に先人たちが伝えてきてくれたことが私たちの中に残っていることが要因かもしれません。私たちは奢ることなく、そうしたことを後世にも繋げていくようにしていきたいものだと思うのです。
教育勅語を歌にした「大切な宝物」
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