天慶三年二月十四日(940年3月25日)は、平将門公が亡くなられた日です。新暦以前に起きたことは、基本旧暦の日付でアップしている本ブログです。

 

平将門公とは、日本の三大怨霊に数えられており、今では神社の神様ともなっている歴史上の人物です。三大怨霊とは、年代順にいうと、菅原道真公、平将門公、崇徳天皇となります。このうち、菅原道真公は学者の家系から右大臣にまでなったお方で、皇族以外で最大の怨霊となりました。平将門公は京都に遷都したことで有名な桓武天皇の孫の高望王が、宇多天皇の勅命により臣籍降下した平氏で、その平高望の孫でした。そして平安末期に保元の乱にて同母の弟の後白河天皇に敗れた後、讃岐に流されその地で崩御されたのが崇徳天皇です。

 

怨霊信仰は平安時代になる前から生まれていますが、その怨霊の強力なものとは皇族であり、また無実の罪で陥れられたことにより、強大化していきます。これは、天変地異や突然の病など原因がわからないものが今よりも多かった昔、やましいことがあるとそうした恨みが怨霊となって出現すると考えられるようになったわけです。これは、ある意味多くの人に良心があったことを示しているともいえるかと思います。

 

そして、天皇となったにもかかわらず不当な扱いをずっと受けてきた崇徳天皇が平安最大の怨霊となったのは必然だったわけです。

 

天皇の側近として忠実に働いていたのにも関わらず無実の罪に陥れられた菅原道真公も最大の怨霊と恐れられるようになりました。

 

菅原道真公は、宇多天皇に抜擢され出世し右大臣にまでなりましたが、醍醐天皇の時代に謀反を計画したとして左遷され太宰府にて亡くなりました。これは、藤原氏の他氏排斥の代表的な陰謀であり、そのため最大の怨霊となったとされています。そしてその菅原道真公が亡くなった年の延喜三年に生を受けたのが平将門であり、だからこそ平将門は東国の独立をめざし天皇を名乗ったのだという説があったりします。(生年は実際は不明?)

 

いずれにしても、平将門公が怨霊となったということは、やはりそこに不当な面があったからにほかなりません。それは、天皇の子孫でありながら、京では藤原氏の下に甘んじなければいけないという時代背景もあったかもしれませんし、地元の下総に戻れば相続争いで土地が盗られるなどの不当があった等、色んな事が重なっています。以前、ある歴史ある神社で代々神主の家系の人に聞いたことがあるのですが、平将門公に関する当時の書面が神社に残されており、公(おおやけ)にはできなかったが、御先祖様は平将門公に味方していただろうというようなことをおっしゃっていました(うろ覚えなので間違えていたら私のせいなので神社の名前は書きません)。つまり、都と関東では、ものを見る面も違っていただろうということです。しかし、朝廷に弓を引いたわけですから朝敵であることに変わりはありません。しかしだからこそ朝敵でありながらも怨霊になったといえるのだと思います。

 

そうした怨霊の力として今も恐れられている場所があります。

 

それが丸の内の首塚です。ここは、移転させようとすると事故が起きたり死者がでるということで恐れられ、丸の内のビル群の中、今も同じ場所を保っています。

 

昭和15年、皇居平川門近くの現在の竹橋駅の近くに和気清麻呂公像が建てられました。和気清麻呂公といえば、道鏡の託宣を確かめに宇佐に赴き、皇室、つまり日本を救った人と言われる方です。なぜこの時代に建てられたのかはわかりませんが、大きな像でそばで見ると圧倒されます。初めて見た時は、何だろうこの像は?と歴史についての学び直しが浅かったのでなんだかわからなかったのですが、学び直しをしてからもう一度見に行ったとき、「あっ!」と驚いたことがあります。和気清麻呂公像の向きが意味することに気づいたからです。その像が見据えている方角とは、すぐそばにある首塚なのです。もしかしたら、昭和という不穏な時代の中、誰かが結界の意味であの位置に和気清麻呂公像を設置したのかもしれないと、この時考えたものです。つまりそれほど現代になっても、平将門公は恐れられているのです。実際戦後も首塚にまつわる話があり、だからこそ今もその位置を守っているわけです。

 

 

しかし、恐れられた怨霊は鎮められ、その強さから逆に守り神として崇敬も集めるようになっていきます。それが怨霊信仰といわれ崇敬される神様です。菅原道真公も、平将門公も、崇徳天皇も今は神様となって私達を見守られる存在となっています。

 

実はこの恐れられているこの首塚はパワースポットとしてお参りする人が多いことも知られています。

 

この首塚を守っている神社が神田明神です。明治時代、明治天皇がお参りすることになり、摂社の将門神社に遷座されたことがありましたが、昭和59年に再び本殿に戻られ、大己貴命、少彦名命と一緒に御祭神となっています。神田明神は、元々首塚の近くにあったため、将門公の御霊を鎮めたことが始まりとなって、御祭神になったといいます。関ヶ原の戦いのときには、家康公が先勝祈願をして勝ったため、縁起がいいと江戸総鎮守となり、元和2年に現在地に遷座しています。

 

 

そして、また平将門公の神社として、筑土神社があります。ここは平将門公の首を密かに首桶に納めて持ち去り、観音堂に祀って津久戸明神としたのが始まりとされる神社で、江戸城が太田道灌により造られたときに守護神とされています。筑土神社は何度も移転をしていますが、戦災で神社が焼けるまでその首桶も御神体としてあり、写真も撮られていました。つまり首も一緒にあったのではないかとHPには書かれています。すぐそばに、武道館がありますが、武道館はここの氏子でありそのため武道関係者のお参りが多いそうです。

 

 

 

現在は近代的なビルの1階にあるのですが、そのビルのデザインが凄くてなんと剣が立っています。

DSC_0788.JPG

 

DSC_0775.JPG

 

しかし、首塚は移転できないのに神田明神も、筑土神社も移転しているということは、首塚のパワー度がいかに凄いかを物語っています。筑土神社には実際に都から密かに持ち帰った首桶があったのに、首が飛んできた地という伝承がここに生まれたのはだからこそだと思います。

 

そして、新宿には鎧神社もあります。ここは日本武尊が、甲冑六具を蔵めたという伝説があるところだそうですが、そこに平将門公の鎧も埋められたと伝わるそうです。しかもその鎧は、この地の人々が埋めた説と、将門公を討った藤原秀郷が埋めた説と二つ伝わっており、それが神社名の由来となっています。

 

 

そして最後に、坂東の将門公終焉の地に創建された國王神社。ここは将門公の三女の如蔵尼が庵を建てたのが始まりで、33回忌に当たって刻んだ平将門公像が御神体とされています。新暦の2月14日は例祭日となっています。また、将門公戦死の翌年から十四日講が行われてきたそうです。平将門公は朝敵とされていたためひっそりと祀ってきたということですが、そうした中でも守られてきた神社には、他の神社にない佇まいがどの写真からも伝わってきます。

 

 

千葉県柏市に将門神社がありますし、他にも奥多摩にも将門神社はあり、その広範囲なことが、当時の将門公の勢力を物語っているともいえるかと思います。

 

 

怨霊がどのように生まれ、そして神様化していったかを知ることは日本的な考え方を知ることでもあると思います。怨霊信仰とは怨霊が生まれないようにするにはどうすればいいのか?という先人達の教訓なんだと思います。そしてどうすればいいかと考えた時、そこに出てくるのは聖徳太子が十七条憲法で言っていた、人を妬んではいけないとかみんなで相談して物事は決めるというような単純な事だったりします。そうすれば、妬んで悪だくみなどせず、つまり良心に苦しめられ怨霊を生み出したりもしないはずだからです。現在でも怨霊は生まれなくても、悪いことをすれば良心に苦しめられるのは変わらないでしょう。人の本質は古今東西変わらないからこそこうした教えはいつの時代も変わらず普遍なものとしてあるのだと思います。

 

菅原道真公が祀られている日本全国にある天神様、平将門公が祀られている神田明神をはじめとする神社、そして崇徳天皇が祀られている白峯神社も、また怨霊となった人々が祀られた御霊神社も、お参りすると優しい雰囲気の神社です。怨霊だった人々が祀られているように思えません。神社によくお参りする人であれば、神社によって怖い雰囲気の神社があることもおわかりいただけるかと思います。私には霊感はありませんし、なにがあるのかわかりませんが、不思議な力というのはあるのではないかと感じ考えています。怨霊と恐れられた後にも神様として祀ることで鎮まり優しくなっている・・・対人関係と同じに思えます。

 

怨霊の歴史がどのように始まったのかがわかりやすい本。

 

 

 

 

 

 

 

 

🌸🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎