今日から3月ですが、3月といえば春分の日がある月。春分の日といえばお彼岸です。お彼岸には、古来から日本ではお墓参りを行ってきました。

 

これは、古来からの先祖崇拝と仏教行事が結びついたものともいわれており、平安時代の始まりの天皇である桓武天皇の遺言から定着したものとなっています。

 

本来輪廻転生の考えに基づく仏教に先祖崇拝の観点はありませんが、その仏教に先祖崇拝を融合したことによって仏教は日本に定着することができました。つまり、仏教の日本化です。古来から外来から来たものを受け入れてきた日本ですが、その多くが日本化することにより定着しています。

 

今、『日本人の魂の香り』を読んでいるのですが、「日本人の心の拠り所」の話から始まっています。そしてその分かりやすい話として、戦国時代に日本に布教活動のために来た宣教師が、農民からの質問に答えられなくて、「日本は宣教師の墓」と呼ばれていたことが紹介されています。農民が宣教師に神様を信じれば天国へいけるが信じなければ地獄に落ちるといわれた時に、みな自分の親や祖先はどうなるか聞いてくるのです。そして、親や祖先は救えないと知ると、だったら自分も地獄に落ちる、自分だけ天国に行くなんて親不孝はできないと答えるような問答が繰り返されたのです。宣教師自身が祖先を敬う美徳を教えられて教義に疑問を持つようになってしまったということもあったようです。バチカンには「『先祖も救われる』と教義を変えて布教してもよいか」との日本の宣教師からの問い合わせの書簡も残っているとのこと。この話はキリスト教がなぜ日本で広まらなかったのか?という話になるとよく例に出される話ですが、著者は、こうした日本人なら自然な先祖への敬愛が、無宗教ともいわれる日本人の心の原点といえるのではないかと結んでいます。つまり、先祖崇拝が日本人の拠り所ではないか、と。

 

この「日本人の心の拠り所」というのはとても分かりやすく腑に落ちる表現だなあと思ったのですが、ここで何度も書いてきた、先祖を知ることつまり自分や家族の歴史を知っている人は強くなれる、というのはそれが心の拠り所であるということになるわけです。そうした拠り所があれば、例えば祖先に恥じないようにするとか、という行動の指針にもなったり、ひいては子孫のためにこうしよう、ああしようというような未来にも繋がっていきます。

 

第二次世界大戦時、アメリカは日本人の強さに畏れを抱いたといいます。アメリカからすれば負け戦のはずの日本側が、がむしゃらに特攻隊などという方法まで使ってくる。そんな恐れを知らない(ように思える)日本人に驚かされたと。日本が終戦を選ばなければ、ベトナム戦争のように泥沼化し、アメリカ兵は疲弊し戦争をやめざるを得ない状態になっただろうといいます。ところが、日本には天皇陛下がいらっしゃってスパッと終戦を迎えることができた。天皇陛下がいらっしゃらなければきれいに戦争を終えることなどできなかったでしょう。いってみれば、天皇陛下の元きれいに終戦を迎え戦後処理ができたという成功体験がアメリカにベトナム戦争をだらだらつづけさせてしまったのだとも。本来、自分の国で戦争が起きればその国の人はがむしゃらに戦うしかないのであって、日本のように終戦を迎えるとができる国などありえないのです。

 

だから、アメリカは終戦前から日本のそうした強さ(精神的)の秘密をあらゆる面から探り、GHQによりウオーギルドインフォメーションプログラムという置き土産を日本に残しました。そしてじわじわと日本からその強さをはぎ取る布石を置いて行ったのです。その中には、日本人の先祖崇拝の表れである神道、日本神話や国史を教えないようにさせることも含まれていました。焚書によってそうしたことを書いた多くの本が奪われ、教科書からは消されました。神道や日本神話、国史を知ることはつまり我々日本人の祖先を知ることです。戦後日本人は核家族化が進みましたが、それは目に見えるものだけでなく潜在的な核家族化も進められたわけです。

 

そしてそうしたことが、日本人の心の弱体化が成功しているのではないか、と不安になります。現在世界が混とんとしており、東南アジアにおいてもいつ戦争が始まってもおかしくない状況のようです。もしそうなったとき、日本人が日本を守ることができるのか、不安になるのはこうした日本人の拠り所であったはずの先祖崇拝が親や祖父母どまりとなっているような現在の日本で大丈夫なのだろうかと考えているからです。もし国が奪われた時、第二のウィグル、チベット等になりかねません。

 

一方で、こうしたGHQの政策から解き放たれた世代が今どんどん改めて日本を探求しているのではないかとも思えて、未来は明るいのかもしれないとも考えています。そしてそうした世代の足掛かりともなるのがこのような素晴らしい本が登場していることです。日本を知ることになる、探求するきっかけとなることはいくらあっても多すぎるということはありませんし、多くの人の考察を知ることによって叡智というものは深く探求できていくものなのではないかとも思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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