第八七代四条(しじょう)天皇は鎌倉時代の天皇です。

 

寛喜三年(1231年)生。

 

御名は秀仁(みつひと)。

 

御父は後堀河天皇、御母は藤原竴子(九条道家の娘)。

 

在位、貞永元年(1232年)から仁治三年(1242年)。

 

承久の変の後、後鳥羽天皇の血統排除のため、その兄で出家していた守貞親王(後高倉院)の子の茂仁親王が十歳で即位されました(後堀河天皇)。後高倉院の薨去後は天皇の親政となりましたが、元来病弱であったため、二歳の秀仁親王に譲位されて即位されたのが四條天皇です。

 

この即位の年、鎌倉では関東御成敗式目が制定されています。

 

その二年後に、後堀河上皇は二十三歳で崩御され、外祖父の道家や母方の縁者である西園寺公経らが政治を動かしたといいます。      

 

しかし四條天皇は元服してすぐの十二歳で事故が元で早世されました。宮中の人を驚かそうと御所の廊下に滑石を撒いたところ、誤ってご自身が転んだのです。

 

仁治三年(1242年)崩御。

 

四條天皇は元服の後、女御を迎えていましたが12歳だったため、皇子女がなく皇位継承問題が生じました。元々鎌倉幕府は承久の変で敗れた後鳥羽上皇の血統以外の者に皇位を継承させるため、後鳥羽上皇の出家した兄の子、後堀河天皇が誕生した経緯がありました。

 

四條天皇の崩御で後高倉院の系統が絶えましたので、結局後鳥羽上皇の系統に戻らざるをえなくなるのですが、公家たちが推す順徳上皇の皇子の忠成王ではなく承久の変になんの関与もなかった土御門上皇の皇子邦仁王が選ばれ即位することになりました(後嵯峨天皇)。

 

この間、11日間の天皇空位期間が発生いたしました。これは称徳天皇から光仁天皇に至る空白期間の55日間以来472年ぶりの事でした。以降、称光天皇から後花園天皇に至る7日間まで天皇の空位期間は186年間起きません。(北朝は除く)

 

御陵は月輪陵、京都市東山区今熊野泉山町、泉涌寺内にあります。泉涌寺内は御寺として御歴代の天皇の御陵がありますが、その始まりは四條天皇とされています。またそこには父君後堀河天皇の御陵もお近くにあります。泉涌寺では御月並法要として17日に四條天皇と貞明皇后の御法要が行われています。泉涌寺で御月並法要が行われているのは、昭和天皇(7日)、昭憲皇太后(10日)、香淳皇太后(16日)、大正天皇(25日)、明治天皇、孝明天皇(29日)となっていますから、四條天皇は御寺開始の天皇として泉涌寺で特別であることがわかります。

 

 

 

 

四條天皇のみ石碑がありましす。

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参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
「歴代天皇で読む日本の正史」

 

本日は、祈年祭の日。

 

 

 

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