第二十七代安閑天皇は奈良時代の天皇です。


御名は勾大兄尊(まがりのおおえのみこと)、広国押武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)。

 

御父は継体天皇、御母は尾張連草香の娘、目子媛(めのこひめ)。

 

継体天皇には皇后との皇子、天国排開広庭尊(あめくにおしはるきひろにわのみこと)、後の欽明天皇がいましたがまだ幼く、長子である兄の勾大兄尊が皇太子となり即位されました。

 

勾大兄尊は幼いときより器量が優れ、寛大で人君にふさわしい人柄であったといいます。皇太子の時も天皇をよく補佐されました。

 

安閑二年、五穀豊穣で辺境に憂えもなく、万民が生業に安んじて飢餓がないことを喜び、人々に飲食を賜り五日間の宴を催しました。古の時代に民に5日間も飲食を賜るような君主がいらしたのです。年の始まりにおこなわれたということは、その年の五穀豊穣を祈る予祝でもありました。

 

 

その年の12月崩御されました。

 

安閑天皇には4人の妃がいましたが、皇嗣ができなかったため弟が即位、宣化天皇となりました。


御陵は古市高屋丘陵、大阪府羽曳野市古市にあります。

 

 

奈良県橿原市には金箸宮の跡に安閑天皇を祀る金橋神社があります。また滋賀県には安閑神社があり、東京都に安閑寺があります。

 

 

 

 

 

 

第百二代後花園天皇は室町時代の天皇です。

 

 応永二十六年(1419年)生。

 

御名は彦仁、円満智、後文徳院。

 

御父は貞成(さだふさ)親王(後崇光院)、御母は源幸子。

 

在位、正長元年(1428年)から寛正五年(1464年)。


第百一代称光天皇には皇子がなく弟も薨去されていたので、後小松上皇は崇光天皇の孫の貞成親王の皇子、彦仁王を猶子に迎え皇位につけました。


貞成親王は伏見宮家の三代目当主でしたから、宮家の役目を果たしたことになります。称光天皇までは崇光天皇の同母弟である後光厳天皇の系統でしたので、貞成親王は嫡流の崇光院系に戻ったことを喜び「椿葉記(ちんようき)」をあらわして帝王の徳を諭し、後花園天皇もこれに応えて徳行を重ねたといいます。以後、今上陛下まで、伏見宮家系統で皇統は続いています。


後小松上皇の院政が崩御されるまであり、その後三十年余り親政を行いました。しかし、後小松上皇崩御の時は、まだ十代半ばでしたから、貞成親王の補助があったのでしょう。

 

長い治世でしたから、様々な事が起きております。近江の正長の土一揆は農民が初めて起こした一揆でした。その他、地侍の一揆、「永享の乱」「結城合戦」「嘉吉の乱」「享徳の乱」「長禄・寛政の飢饉」「長禄合戦」が起き、延暦寺僧侶の訴訟に関わる騒動、「文安の麹騒動」もあります。これは幕府と守護達が互いに争うことが続いていたことによるもので、「嘉吉の乱」においては将軍足利義教が暗殺されています。そこに、台風や大雨による水害や飢饉や旱魃、虫害、疫病も起こり、一揆が発生するなど治安が悪化しました。

 

天皇は時にこれらに対して論旨を発するなどの政治的役割を果たした他、疫病・飢饉の際の将軍足利義政の贅沢を戒めています。そのため天皇は「近来の聖主」と称えられました。

 

義政を戒めるために送った詩

 

残民争いて採る首陽の蕨
処々廬を閉じ竹扉を鎖す
詩興の吟は酣なり春二月
満城の紅緑誰が為に肥えたる

 

⇒災害に虐げられた民たちが首陽山のワラビをわれさきに採り、いたるところでわびしい住まいを閉ざし竹の扉に錠をおろしている。詩を吟じようにも気持ちの痛ましい二月、都に満ちる赤い花と緑の葉は一体誰のために茂っているのか。

 

これは飢えに苦しむ庶民と有楽を事とする天上人を対比する戒めの内容となっています。

 

こうした天皇の行動は、皇室の二つの家訓によるものと紐解く『和歌で読み解く天皇と国民の歴史』。そしてこれこそが、長く続く我が国の芯となる天皇と皇室を表すもの。つまり民を想う大御心です。

 

 

なお、「新続古今和歌集」が勅宣により撰上されています。

 

同時代には、朝鮮半島では李朝第四代の世宗が「訓民正音」というハングル文字を公布しましたが、明治時代に寺内正毅初代総督が取り上げ学校教育にも取り入れるまでは使用されませんでした。

 

欧州ではオスマントルコの攻撃を受けコンスタンチノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡しています。

 

在位三十七年で皇子の成仁(ふさひと)親王に譲位し(後土御門天皇)、院政を行いましたが、「応仁の乱」が起きると自らの不徳を悟り出家されたといいます。この後、皇室はどんどん貧窮していきますが、そうした中でも伝統を守ろうとし、確固たる存在となっていったのは、そうした時代の始まりに後花園天皇の存在があったからではないかと思います。


文明二年(1471年)崩御。


御陵は後山国陵、京都市右京区京北井戸町丸山にあります。

 

 

 

『歴代天皇の御製集』には、2首の御製が紹介されていますが、一つは御自身のお立場と御覚悟を詠まれた歌、そしてもう一つは、民のために祈られる大御心の予祝の歌です。

 

思へただ
空にひとつの
日の本に
またたぐひなく
生まれ来し身を

 

自らのあり方をひとえに考えていけよ。空に太陽が一つしかないように、万邦無比である日本に、さらにまた並ぶものがない皇子として生まれてきて皇位についた我が身を自覚して。

 

よろづ民

うれへなかれと

朝ごとに

いのるこころを

神やうくらむ

 

万民が安らかに憂いなく生きられますようにと、朝ごとに祈っている。その心を神はきっと受け入れてくれるだろう。

 

参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
「歴代天皇で読む日本の正史」

「室町戦国天皇列伝」

 

 

 

 

 

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