斉明天皇元年(655年)一月三日、皇極天皇が飛鳥板蓋宮にて再び即位されました(斉明天皇)。旧暦では本日は1月3日ですので1369年前の本日ということになります。

※古来より何度も改暦がされていますので単純に旧暦にあてはめています。

 

これは史上初の重祚ですが、重祚は後の孝謙天皇が称徳天皇として重祚された2例しかなく、両方とも女帝です。

 

孝徳天皇が即位されたのは、乙巳の変の直後、皇極天皇が史上初の譲位をされたことによるものでした。これ以降光格天皇まで五十四例の譲位が行われています。(北朝は除く)令和の御代替わりも譲位となりますので、現在五十五例となりました。

 

 

この時、軽皇子(孝徳天皇)は、舒明天皇の皇子である古人大兄皇子が皇位を継がれるべきであると自らの即位を辞退されましたが、古人大兄皇子が即座に出家されたため即位されたという経緯があります。古人大兄皇子は、乙巳の変を起こした中大兄皇子の勢力を怖れ出家されたともいいます。「大兄」というのは皇位継承の順番を表しているといいますから、名前からすると古人大兄皇子が皇位継承では順当であり、「中大兄」は2番だったことになります。なおその2年前には山背大兄皇子がいましたが蘇我入鹿に滅ぼされておりますので、山背大兄皇子を入れたら3番だったことになります。そうしたことを知って歴史を見るとまた見方が変わってくるかと思います。

 

中大兄皇子はすぐに即位されるつもりはなく、斉明天皇が崩御された後も即位されずに政務をとる「称制」を七年も続けられてから即位されました(天智天皇)。これは実は即位できなかったという説もあります。しかしいずれは御自身で即位されるおつもりだったのでしょう。だからこそ皇極天皇の初の重祚が行われたのです。そして斉明天皇の時代には、孝徳天皇の皇子の有間皇子が謀反を起こしたとして絞首刑にされましたが、陥れられたといわれています。

 

皇極天皇が譲位されたのは、中大兄皇子が起こした乙巳の変がきっかけです。これは譲位をせざるを得ない状況を中大兄皇子が作ったともいえます。そして、孝徳天皇は即位されたくなかったのに即位されました。また有間皇子が危険視されたのも、孝徳天皇の皇子だったからです。もし孝徳天皇が即位されなければ、有間皇子が危険視されることもなかったかもしれません。

 

 

孝徳天皇は皇極天皇が譲位されたため天皇となりましたが、天皇となってからは中大兄皇子の勢力が強い中でも意欲的に政務に励まれています。交通の便のよい難波への遷都や、今に繋がる年号を始めたのが孝徳天皇の意志であったことは、それに反して朝廷を引き連れて奈良に戻られた中大兄皇子の行動に表れていますし、孝徳天皇崩御後、年号が使われなくなったことからも明らかです。孝徳天皇は朝廷のほとんどが奈良に戻ってしまい寂しく難波で崩御されたと伝わります。

 

皇極天皇が譲位され、心ならずも孝徳天皇が即位された時、右大臣となった蘇我石川麻呂が孝徳天皇へ進言された言葉が日本書記に記されています。「天皇は天神・地祇を祀り鎮め、その後政治を進めて下さい。」これは民の幸せを願う先祖の御事績に倣うものです。それを心に感じた民と力を合わせた国造りというのが古来からの日本からの習わしでありそれを石川麻呂が再確認の意味で進言されたといえます。

 

考徳天皇やその皇子有間皇子の悲劇は、史上初の譲位に始まったといえるかと思います。こうしたことがこの後も繰り返されていくことになりますが、皇位を巡る争いや悲劇が繰り返される一方で歴代の天皇がその天皇という役目を果たされてきたという歴史も特筆すべきことかと思います。

 

孝徳天皇の崩御後、斉明天皇が重祚されたのは、皇位継承が難しく厳しい時代であったことを物語っているといえます。斉明天皇の崩御の後、中大兄皇子が7年後即位されますが、わずか数年で崩御された時、その皇子の大友皇子と天智天皇の弟、大海人皇子の間で壬申の乱が起きています。

 

壬申の乱の後、大海人皇子が即位されました(天武天皇)が、天武天皇が崩御後、持統天皇が即位し、またその後重祚することになる孝謙天皇が即位するまでの間にも、2人の女帝が即位しました。そして孝謙天皇が称徳天皇として重祚した後、二度と重祚はされていません。

 

称徳天皇の次の光仁天皇が即位されてからは皇位争いによる陰謀で多くの皇子が亡くなり怨霊の時代となっていきます。

 

光仁天皇が即位されたのは、まだ白壁王であった時代に、称徳天皇の異母姉妹である井上内親王と結婚しており、その皇子である他戸王は天武天皇系の皇族の最後の一人だったからでした。光仁天皇は天智天皇の皇孫でありましたから、他戸王は天武系と天智系の両方の血を引いていたのです。だから、本来であれば他戸王が次の天皇となるはずでした。光仁天皇はそのための中継ぎとして、当時としては最高齢の即位をされたのです。

 

ところが、井上皇后が天皇に呪詛したとして皇后を廃され、立太子されていた他戸親王も皇太子を廃されたのです。その翌年には新たな呪詛の疑いで皇后と皇太子を廃され、それからたった3年で同じ日に薨去されました。これは後に怨霊が発生し、慰霊が繰り返されたことから、濡れ衣であったことがわかるのですが、なぜこんなことが起きたかというと、井上内親王が称徳天皇の妹であったことから、再び女帝が即位されるのを恐れたという説があります。

 

この後、江戸時代になるまで女帝は誕生していません。

 

歴史を辿ると考えさせれることは多くあり、またそうしたことから培われた叡智の積み重ねで今の日本があるのだと思います。せっかくの叡智を知らずに今を考えていいものだろうか?と思います。

 

ことあるごとに女性差別とかなんだとか世の中が騒がしいですが、これはそんな単純な問題ではないですし、欧米をはじめとする他の国々の考え方で日本国内について考えるのは間違っています。かといって、日本国内の問題をそのままにしていいというわけでもありません。日本はアジア初の女帝が誕生した国ですが、それは皇統争いを納めるためでした。そして重祚が2回行われていますが、そこにも争いを起こさないための要素がありました。男性と女性では、身体もその仕組みも違いますし、考え方も違ってくるということがよくあります。そうした違いを踏まえて世の中の仕組みを考えていかなければきっと後々齟齬が起きます。そうした姿が現在の欧米の姿ではないかと思います。程度の差こそあれ、日本ほど同時代の世界の中で女性が強い国はいつの時代もありません。現代においてもそれが変わらないのは、日本人の一般家庭で家の覇権(!)を誰が握っているのかを考えれば誰もが知っていることです。それを知らないとしたら、もしかしたら日本人の家族ではないのかもしれません。普通の日本人家庭は基本母親が一番強いです。そう見えなくても実は母親が家庭を支えているということです。確かに国外からはもちろん国内から見ても、女性の立場についての問題を抱えているのも事実です。それは長年社会で働いてきた私は痛感しています。でもだからといって単純に女性の役員を増やせとか、トップを増やせなんて考えたりしないのは、そんなことをしたら迷惑するのが自分だとわかっているからです。男女で選ぶのではなく、能力で選ばなければなんでも意味がないし、使えない上司やトップが仕事を滅茶滅茶にしてしまうのは性別に関係ないことは、多くの人が知っていることでしょう。そして、世の中には、外に出て働きたくない、主婦でいいという人も多いということもよく知っています。私の従妹たちがそうで、子供達の手が離れても主婦のまま、1人は子供にもっと働けばいいのに(w)と言われても短時間のパート勤めしかしていません。一方で子供ができるまでバリバリ働き子供ができてからは主婦、しかし後にシングルマザーとなった友人は、パートを3つ掛け持ちして子育てをし、今は契約社員の仕事をしながら給料が足りないので今もパートの仕事を掛けもって子供を大学に通わせています。それは地方都市にいるから仕事がなかなかないということもあってこういう形態になっています。しかし、これだけで色んな問題がみえてきませんか?友人が苦労して子供を大学に通わせ子供にはあとで奨学金の返金という負債まで付いているのに、留学生が返済不要の奨学金で大学に通っていることを多くの人が放置しています。もう一人の友人もシングルマザーで奨学金で子供を大学に行かせましたから、私の友人の子供達だけでも4人が奨学金の負債を持っています。人権問題を色々いう人達はこうしたことにはなぜ踏み込まないのでしょうか?日本国内にいながら日本人の人権がないがしろにされているということが多くあります。通常、諸外国では留学生の学費は国内の学生に比較して高く設定されているそうです。なぜなら、学問とは将来の投資であり、国のために働くのは普通国内の学生だからです。事実、日本の大学で研究したことを持ち出されることが何度も起きて問題になっているというのに、京大の研究室は外国人ばかりというのが以前話題になっていました。そうでなければ研究もままならないと当たり前のように大学関係者が言っていますが、日本の未来はどうなってしまうのでしょう?そして、長年拉致被害者が放置されたままですし、不審死や自死が多いことも対策されていません。そうしたことが日本の人口減少に繋がっているのは誰の目にも明らかです。そして多くの国で失敗しているのを目にしてきた移民政策が実行されています。海外だけでなく国内においても違う名前に隠されて実行され(実行させられ)日本国内に多大な不幸をもたらしてきている既にたくさんいる移民問題をそのままにしておいて、新たに移民を増やし、日本人の人権を迫害しているのは誰でしょうか?

 

 

孝徳天皇が遷都した難波は皇室が聖の帝と見本にしてきた仁徳天皇の都でもあります。国民が生活が苦しくて困難な時代に6年もの間免税にしてボロボロの宮殿もそのままにさせた天皇です。この苦しい時代に課税をしようとするなら、その前に日本人以外のために使用している税金を精査してからでしょう。

 

 

日本国内で日本の神社にお参りしただけで攻撃される日本人。三浦春馬さんが映画「永遠の0」の後、毎年靖国神社に参拝されていることが知られた時も、変なことを言う人がいました。外国人だけでなく日本人までもが、靖国神社をはじめとする護国神社についての認識をきちんと持っていないことが、こうしたことを繰り返させているのではないでしょうか。

 

 

我が国の歴史だけでなく、世界の歴史をみれば、なぜ日本が世界一古い国として維持できてきたのかは、万世一系としてきたからであることが明らかです。そしてだからこそ、そうしたことを少しずつ壊そうとする輩は、女性天皇や女性宮家の話を持ち出してきていることも。その前にできることがあるのに、そうした話を出すことが異様であるということに気が付かないのは、私たちがそうしたことをきちんと教わってこなかったことに原因があります。私たちは自らの無知に付け込まれています。それも、GHQが、我が国のことを我が国の国民に教えないようにしたことが今も尾を引いているのです。

 

 

皇極天皇の時代は万葉の時代であり、日本書紀に詳しく書かれた時代でもあります。記紀はそれぞれ編纂1300年以上となりますが、1300年の年月を重ねてきた叡智はどこにあるのか?と考えさせられます。

 

 

この万葉集の本は、ねずさんの百人一首と同様素晴らしい本です

 

 

 

 

 

 

 

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