また通信機トラブルで1日PCが使用できませんでした。でも今日のうちにこれはアップしたい!と急ぎました。

 

ところで昨日も今日も月がとってもきれいに輝いています。

もしかした大寒の時期の今が晴れてさえいれば一番満月がきれいに見える時期かもしれません。寒い時期は、空気が澄むからです。

 

本日は旧暦の十二月十五日、そして明日の2時54分が満月となりますから今夜の月はほぼ満月です。

 

 

 

159年前、元治元年十二月十五日(1865年1月12日)、高杉晋作は長州藩俗論派打倒のために功山寺でクーデターを起こしました。

 

このクーデターは、功山寺決起、あるいは功山寺挙兵や回転義挙とも言われています。

 

この時、最初は誰も高杉晋作に賛同する者がいなかった中、少しずつ仲間が増え最終的に高杉晋作側が勝ったので長州藩が倒幕に統一されたという伝説の事件です。

 

私はこの話を聞いた時、その日付が満月の日であることに注目しました。旧暦では15日は満月と決まっており多少のずれがあったとしても満月の時期にあたるからです。だからこそ、満月の日だから人が集まったのかもしれないと思ったのです。これが他の日だったらこれだけ人は集まらなかったかもしれないと。

 

日本では満月の日に戦をしたり、その近い日に何かをするという事が慣習的にありました。夜に動く場合は、月の明るさ、あるいは暗さはとても重要です。しかし、なんといっても満月の不思議な力を昔から生かしてきたという事ではないかと考えています。そしてだからこそ、高杉晋作もこの日に動いたのではないかと思うのです。

 

159年前のこの夜も、月はきれいに輝いていたのでしょうか?その疑問に答えてくれるのが功山寺HPです。

 

 

上記HPの功山寺の歴史には、満月の記載がされています↓
功山寺が討幕の発火点となったのも歴史のめぐりあわせというものだった。
吉田松陰の高弟・高杉晋作の名を歴史にとどめた主な仕事は、奇兵隊の結成、功山寺挙兵、第2次長州征伐の幕軍の撃退の3つを挙げることができる。そのなかでも功山寺挙兵は、これが失敗していたら明治維新は何年か遅れていただろうといわれるほど重要な場面である。
蛤御門の変、4国連合艦隊の来襲によって藩難を迎えた長州藩では、旧守派(俗論党とよばれた)が血の粛清を敢行して、ひたすら幕府への従順をあらわした。幕府も勢いにのって、長州藩の解体を策すという事態を迎える。福岡に亡命していた晋作は、死を覚悟して帰国し藩論回復のため、遊撃隊士などわずか80人ばかりの同志をひきいて俗論党打倒をさけびクーデターの兵を挙げた。その決起の地が功山寺である。当時、京都から落ち延びてきた討幕派の公卿7人のうち三条実美はじめ5人が功山寺にひそんでいた(五卿の間として功山寺に保存されている。)晋作は私兵でない証とするため、五卿にあいさつしたのち挙兵したのだった。やがて奇兵隊のほか諸隊も立ち上がって戦列に加わり、農民・商人など藩内の民衆も決起軍を応援して武士団の俗論軍を圧倒、ついに討幕の藩論を確定させた。
 元治元年(1864)12月15日、高杉晋作が決起したその日は大雪で夜は晴れて月が出た。石段も山門も仏殿の屋根も、中天にかかる満月の光を浴びて白一色に輝くなかを、晋作は愛馬に鞭をあてて時代の夜明けにむかって駆け抜けていったのだ。

 

明治維新への足掛かりとなった高杉晋作挙兵の地 元治元年(1864年)、高杉晋作は 伊藤俊輔(のちの博文)ら、わずか80人とともにこの地で決起。幕末好きなら押さえておきたいスポットだ。仏殿は鎌倉時代の禅寺様式を残す国内最古の建物とされ、国宝に指定されている。

 

 

幕末には沢山の志士が登場しましたが、あの坂本龍馬を超える規格外過ぎる人物が高杉晋作です。歴史教科書では奇兵隊とセット単語でしか出てきませんが、こういう人物こそ教え伝えていくべき人物だと思います。


私が功山寺決起について最初に知ったのはひすいこたろうさんからです。ひすいこたろうさんは坂本龍馬大好きなんですが、坂本龍馬を超える存在の高杉晋作ですから、幕末好き、歴史好きの例にもれず大好きで、熱く語っていました。ということで、色んな方が語っている動画があります。わかりやすいと思いますのでぜひご確認いただきたいと思います。

 

もぎせかチャンネルでの現地レポート

 

CGSで語る倉山満氏

 

そしてもちろんチャンネルクララでも語っています↓満月だったという言葉を何度も語っています。

大河ドラマ「花神」より、功山寺決起のシーン

 

そして高杉晋作伝説で忘れてならないのが下関戦争のイギリスとの講和交渉。古事記講釈が最高です。これはこの時通訳をさせられた伊藤博文が後に語っていたと伝わる話です。上記大河ドラマで高杉晋作を演じた中村雅俊さんの古事記講釈、あたふたと通訳するのは伊藤博文に扮する尾藤イサオさんです。功山寺決起でも最初に来た一人が伊藤博文(俊介)でした。

チャンネルくららでももちろんこの話題があります↓倉山さんが語っている口調は明らかに大河ドラマから・・・。

英国の通訳を務めたアーネスト・サトウが回顧録に高杉のことを書いていたことも有名ですが、高杉がいたからこそ彦島が第二の香港になることが防げたわけです。香港がどうしてああなったかを知れば、現在日本の離島で起きている問題がただごとではないことがわかるはずです。なんといっても、当時の高杉が上海で見てきただけですぐわかったわけですから。当時の人間に理解できたことが、現代の日本人に理解できないはずがありません。

 

古事記、日本神話に始まる日本の歴史は日本人の基礎知識です。こういう規格外の人物であってもこうした基礎知識があるからこそ、神話をこんな風に使うということもできたわけです。

 


彦島の香港化を防いだのは高杉晋作がいたからです。この時、断固として拒否できたのは高杉晋作が清に行ったことがあり、実際に目にしていたことが大きいと言われています。海外視察の重要性はこういう見る目を養うことです。シラス=知ることは情報(インテリジェンス)でもあり、いつの時代も最重要課題です。長州ファイヴなど真っ先に藩士を海外に遊学させているのは吉田松陰や高杉晋作をはじめとする人々から引き継がれた精神の賜物が長州に根付いていたからだったと思います。

 

高杉晋作はその行動力などからもっともっと日本人に知ってほしい人物ですが、歴史好き、幕末好きでないと病のため若くして亡くなったため意外と知らない人も多い歴史上の人物の一人だと思います。ただ、知っている人はファンとなっている人が多い面白い人物なんですが。結構、重要な人物で活躍をしていたのに知られていない人ってまだまだ多いんですよね。


久野潤さんの面白い話 長州編 1↓(1:28:57)久野潤チャンネルはお勧めです。なお、久野さんは各地で「れき勉」、歴史勉強会を行っていますのでご興味ある方は検索してみてください。


注:高杉晋作はほとんど出てきません・・・

ダイジェスト版 2

ダイジェスト版 3

ダイジェスト版 4

ダイジェスト版 5

ダイジェスト版 6

ダイジェスト版 7

 

なお、高杉晋作が上海に密航した時、既に2回目の上海という薩摩の密航者が船に同乗していました。五代才助、後の五代友厚です。五代友厚を描いた映画「天外者」には高杉晋作は登場しませんが、実際に親しかったのではないかと思われるのが高杉晋作で、晋作は上海では五代について歩いたといいますし、才助については記録にも残しています。きっとその知識の影響を大きく受けたのは五代友厚だったのでしょう。吉田松陰からの影響は有名ですが、五代才助にも影響を受けたのが高杉晋作といえるのではないかと今では考えています。

 

「天外者」を観る前に五代友厚について予習してみたところ、幕末明治の志士の中では地味で有名ではありませんでしたが、実は坂本龍馬も高杉晋作も、五代友厚の存在がなかったら今知られているような活躍ができたかどうかも怪しく感じられるほど、当時としては進歩的で頭の良い男でした。まさに天外者ですが、これはやはり薩摩という密貿易を続けてきた藩内の学者の家庭で育ったことが大きいのだと思います。

映画は、集約された物語になっておりそうした実際の歴史的事実はでてきませんが、「天外者」は日本人として観ておいたほうがいい映画だと私は思います。

 

 

 

今夜、まだ満月を見ていない方は、今からでもぜひ夜空を見上げてみてください。東京の私がさっき見たときは頭上高かったのに、本当に白く輝いていました。でも、北海道や北陸は雪の予報なんですよね。特に北陸の雪はいつもの年以上に厳しいので少しでも少ないことを願っています。

 

 

 

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