本日の祭日、第百十二代霊元天皇は江戸時代の天皇です。


国立公文書館の「江戸時代の天皇展」展示の霊元天皇御影のコピー写真(撮影可だったもの)

 

御父後水尾天皇の第十九皇子、御母は園国子。

承応三年(1654年)生。


諱は識仁。

即位は寛文三年(1663年)から貞享四年(1687年)。徳川幕府は第四代家綱から第五代綱吉の時代です。

兄の後西天皇から譲位され十歳で即位。父帝の後水尾法皇の院政が続きます。後水尾天皇の皇子女の天皇が、明正天皇、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇と続いていました。

即位十八年後に後水尾上皇が崩御すると、親政を開始されました。同じ年には、第五代徳川綱吉が将軍になっています。

霊元天皇は、途絶えていた朝廷儀式の再興をはかり、朝仁親王の立太子礼と中宮房子の立后を行いました。皇太子の称号もこの時復活させました。また朝仁親王の即位(東山天皇)にあたっては、室町時代の土御門天皇以来二百年以上途絶えていた大嘗祭の復活のため幕府とかけあいました。しかし援助がなく簡略な形で復活させました。(大嘗祭とは天皇に即位した後初めての新嘗祭。天皇一代につき一度だけの祭祀。東山天皇即位の時に実現。)

譲位にあたっては、幕府より院政を行わないよう釘をさされましたが、東山天皇はまだ十三歳でもあり、事実上の院政を強行しました。のちに政務を完全に東山天皇に委任しています。

父帝の後水尾法皇が院政が出来たのは、法皇の中宮であり二代将軍徳川秀忠の娘の東福門院が擁護されたため、江戸幕府も黙認せざるをえなかったのですが、霊元上皇までは院政を認められないと通告したのです。しかし霊元上皇はこれを黙殺しました。二十二年後、東山天皇が譲位され院政を始めてすぐ崩御されたため、次の幼い天皇の後見となり院政を再開されています(中御門天皇)。

即位中の貞享二年二月(一六八五年)、渋川春海による日本独自の和暦が初めて完成し朝廷は貞享歴に改暦しました。これは800年ぶりの改暦でしたので、当時随分話題になったといいます。この時から、日本の暦は日本独自のものとなり、明治に新暦に変えられた頃は実は世界一の精度を誇る暦だったといいますから、本当にもったいないことだと思います。

和暦完成までの物語の映画化「天地明察」↓原作も面白い。


原作本が凄く面白かったです。本書は、国学についての話もたくさんあり、冲方丁氏が調べられれた当時をうかがい知ることもできる、そんな著書です。本書を読んだ当時、ちょうど国学について知り始めた頃だったのですが、そうした話が出てくるとは思っていなかったので、凄く勉強になりました。本書があるからこそ、その3年後冲方丁氏は水戸光圀についての『光圀伝』を書かれたのだとわかります。海外育ちで水戸黄門のドラマ等を知らない冲方氏だからこそ書けた、史実に沿った水戸光圀像と言われています。※とはいえ小説です。


また将軍綱吉の影響で儒学が盛んな時代となり、多くの学者を輩出した頃でした。後に閑院宮家創設を進言した新井白石もこの時代に出てきています。宮家創設は、霊元天皇の皇孫である中御門天皇の時代のことでしたが、宮号と新領は霊元法皇から下賜されています。

 

 

町民文化が盛んとなり、井原西鶴や近松門左衛門が人気を博した頃です。この二人は改暦の際には、それぞれ『暦』、『賢女手習並新暦』を書いています。

霊元天皇は、幼い頃から才気煥発で長じてからも英才ぶりを発揮したといいますが、傲慢さもあったそうです。また剛毅で我慢強く、夏は容易に扇を使わず、冬の寒さにもめったに火鉢を用いなかったといわれています。もしかしたら、そのお陰で長寿だったのかもしれません。

また能書(字の上手いこと)で知られ、有栖川流書道は霊元天皇の書道から派生し、現在も秋篠宮皇嗣殿下などに継承されています。

貞享(1732年)崩御。七十九歳。八代将軍徳川吉宗の時代です。

遺諡(追号を自ら遺詔により決めること)にて霊元天皇となりましたが、第七代孝霊天皇と第八代孝元天皇から採ったそうです。とても興味深い選択で、どうしてそう遺詔されたのか教えてほしいです。

御陵は月輪陵、京都市東山区今熊野泉山町、泉涌寺内にあります。

 

 

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御寺泉涌寺にお参りした際に霊元天皇の御影を拝見いたしました。

 

改暦を行った渋川春海は山崎闇斎に影響を受けていましたが、山崎闇斎は垂加神道という神道説を唱えており、霊元上皇は親交のあった下御霊神社の出雲路信直・直元父子を通じてこの影響を受けていたとされます。そして崩御の際は山崎闇斎が祀られている下御霊神社に祀るよう伝えたとされ、山崎闇斎とともに祀られています。本日は下御霊神社でも霊元天皇祭が行われます。

 

 

 

後に起きた宝暦事件は、山崎闇斎の流れを汲んだ学問を天皇と近習が学ぼうとしていたのを朝廷政治を担っていた摂家が幕府へ忖度して起きた事件です。

 

参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
「歴代天皇で読む日本の正史」


冲方丁さんの本は、『天地明察』しか読んでいませんが、あまりにも面白かったし、当時のことを調べているその内容の生かし方も上手かったので、その後の『光圀伝』や『はなとゆめ』など歴史ものが出るたび読みたくなっています。『天地明察』を書いていて『光圀伝』を書いたように、きっと『はなとゆめ』を書いていて『月と日の后』が生まれたんだろうと思います。他にも『麒麟児』や『戦の国』といった時代物がどれも面白そうで、多分読みだしたらあっという間に全部読む自信があります。それほど『天地明察』は面白かったからです。当時初めて聞く作家さんだったのですが、その力量に驚かされましたが、既にライトノベルやゲーム系の作家として著名な方で、その方が初めて本格的な歴史ものを書かれたのがこの『天地明察』でした。

 

『光圀伝』は以前大河ドラマに向けて動いていました。もし『光圀伝』が大河ドラマに選ばれていたら、三浦春馬さんが主演に選ばれたかもしれないなあ、と考えています。それほどこの作品の当時のインパクトは凄かったし、それを『天地明察』の中井貴一さんの演技が後押ししていました。(って読んでないけど、パラパラ読みしただけでもすごく面白かったし、『天地明察』に登場する光圀像は強烈でしたので。)

 

2015年、冲方さんの離婚が警察沙汰になってしまったため当時は水戸市からの要望予定が中止になっていましたが、今またドラマ化に向けて動いているそうです。確かにあの騒動には当時驚かされました。手垢のついた大河ドラマの主人公たちと違い、水戸光圀の話は新鮮でまた昭和世代に染みついている黄門様像を覆す話題作となったことと思います。

 

当時、何の問題もなければ勢いのあった本なので、あっという間にドラマ化が決まり、茨城の俳優ということで三浦春馬さんが決まっていてもおかしくなかったのではないかと思うのです。もしここで決まっていれば、茨城県出身ということで後から他の人にすげ替えることもできなかったはずです。20代後半であれば、大河の主役をやるのにちょうどいい年齢です。20代であれば10代後半から青年期を演じるのに違和感はなかっただろうし、春馬さんなら壮年期を演じる演技力もあっただろうと思います。もし、この『光圀伝』が流れていなかったなら運命は随分と変わっていたのではないだろうか?と、いくつもある狂った歯車について考えさせられる事件でした。

 

後から考えると、どんなことも全てが繋がっている、と霊元天皇と山崎闇斎の縁から考えさせられるのです。

 

 

 

 

 

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