本日は旧暦6月1日で、朔日、つまり新月の日となっています。

 

旧暦では、1日は新月、15日は満月となっていて、日付で月の状態がわかりやすくなっています。

 

このことを知ってから、国史上の事件は旧暦でみなければわからない、と思うようになりました。例えば、赤穂浪士の討ち入りは、12月14日ですが、これは吉良上野介がこの日家に確実にいるという情報が入ったのも重要ですが、この日が翌日が満月という14日の晩で明るい晩であったことも討ち入りにもってこいの日であったのだと思うのです。実際この日は良く晴れた晩だったといいます。(ドラマや映画で雪となっているのは脚色)ただし、決行時刻は明け方で既に月は低い位置だったそうです。

 

そして、6月朔日の深夜、つまり6月2日未明に起きた国史上の大事件といえば、本能寺の変です。天正十年六月二日(1582年)のこの日が満月前後の明るい晩であったなら、明智光秀はこれを決行しただろうか?と考えています。この日が、朔日の深夜で暗い夜であったからこそ、本能寺の変は起きたのではないか?と。

 

現在、街灯が明るいところが多く、夜の暗さ、特に新月の時期の夜の暗さというのを知らない人が多いかもしれませんが、現在でも街灯の少ない田舎の新月の晩は、足元も見えないほど暗いのです。秘密裏に何かを進める時に、こうした晩は最適でしょう。

 

実際のところ、なぜ本能寺の変が起きたのか、たくさんの研究がされていますし、どれが真実かは歴史のミステリーとしてこれからも探求されていくのでしょう。今放映中の大河ドラマでも次がこの本能寺の回のようですが、どんな説になるのかが話題となっております。ただその実際に実行されるきっかけの一因に、この日の月の状態を考えてもいいのではないかと思うのです。

 

今夜は東京エリアは、曇りがちな晴天のようですので、夜の暗さがわかりやすいのではないでしょうか。

 

ところでこの本能寺の変が起きた時に、その真っただ中にいたのが、正親町天皇の皇子、誠仁親王です。

 

誠仁親王は信長から京都滞在用の屋敷を献上されており、その二条御所に移っていました。正親町天皇がいらっしゃる内裏は「上御所」、誠仁親王がいらっしゃる二条御所は「下御所」と呼ばれていました。

ところが、本能寺の変が起きた時、妙覚寺を宿所としていた織田信忠が、軍事施設として優れていた二条御所に立てこもったのです。この時、信忠に同行していた村井貞勝の交渉により、誠仁親王らは禁裏へと移ることができましたが、光秀が逃亡者が紛れ込むことを警戒したため、馬や乗り物の使用は許されず、徒歩で二条御所を出られたといいます。こうした話を聞くと、光秀が皇室に篤くという風に言われているのは違うのではないか?という風に変わってきます。なお、信忠はこの場所で闘い生涯を終えました。

「室町・戦国天皇列伝」他、参照

 

二条城と呼ばれる場所は4か所あり、現在の二条城として知られているのは徳川家康が造られたもの。上記の二条御所(二条城)は織田信長が造らせたものです。

 

現在の本能寺。ここも当時とは場所が違います。

 

2020年新暦6月2日に行われた本能寺の信長公忌の動画。本能寺には信長公の御墓がありますが、この御墓は空であることが有名です。信長公の遺体は見つけられなかったからです。

ただし、つまりすぐに骨が持ち去られていたわけで、こちらのお寺に葬られています。

阿弥陀寺開山の清玉上人は、織田家と深い縁を持ち、信長とは別懇の間柄だったそうです。寺伝によると、本能寺の変が起こった時に清玉上人は僧徒を引き連れ駆け付けましたが、信長は既に亡くなっていたため、その場で火葬し遺骨を法衣に包んで持ち帰ったとされています。後に現在地に移転する際に信長をはじめとする120余名の墓も移したと伝わり、大正6年に行われた宮内庁の調査で織田信長の廟所であると認められました。

清玉商人は、信長公と一緒に育ったそうです。こちらも新暦6月2日に信長公忌をされているそうです。
 

信長公は神を信じぬ武将とよくいわれますが、実は多くの神社に縁があり、迷信も信じていたとも言われています。以下、縁の有名な神社をいくつか。ただし、建勲神社のみ明治期創建の信長公が祀られた神社です。

 

明治二年(1869年)明治天皇から、戦国乱世において天下統一、朝儀復興への働きがあった信長公の御偉勲に対し、特に神社創立の宣下があり、創建された神社で、やはりこの変で亡くなった嫡男信忠と一緒に祀られています。例祭は、本能寺の変のあった日ということで新暦の月ずれ旧暦では6月の月となる7月1日となっています。

 

劒神社は織田家発祥の神社で氏神社。地名にも織田の字が入っています。織田家は元々劔神社の神職の家系で、忌部氏系だったといいます。こうした織田家のルーツを知ると、織田信長が神社に篤いことも理解しやすくなります。こちらでは、信長公の行事はありませんが、7月15日が織田神社八幡祭りとなっています。

 

桶狭間の戦いの直前に参拝したことで知られる熱田神宮は、三種の神器の劔が祀られているため、武将の信仰が篤いことで知られています。信長は、桶狭間の勝利後、信長塀を寄進したことでも知られており、そのおかげで多くの火災からお社が守られたといいます。

 

信長塀と西日

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これは以前ふとみつけた、塀の上のハート型

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岐阜県の歴史の古い神社ですが、こちらも信長公が先勝祈願をした神社です。これにはいわれがあり、信長公がこの地に攻め入り、神社にも攻め入ったのですが境内に入った所、霧が立ち込め身動きできなくなってしまったそうです。そこで、神社には攻め入らないと誓うと、霧は晴れ、身動きできるようになったことから、ご神威を感じ、先勝祈願を行ったとのこと。その後宝物等を遺したそうですが、神紋も巴紋から織田木瓜に変わったそうです。御祭神は神社名の通り、古事記に登場する手力雄神。

 

素戔嗚系の神社として歴史の古い神社。織田家の経済拠点にある神社として崇敬の篤かった神社。神紋も織田氏の家紋と同じ。夏の天王祭が有名です。

 

武家の信仰篤い八幡様ですが、こちらにも信長は参拝、また寄進もしており、本殿には信長公が寄進した黄金の雨樋があり、私は以前拝見させてもらったことがあります。またこちらにも信長塀があります。

 

 

神宮(伊勢)では戦国時代約120年間、遷宮の中断がありましたが、織田信長はその再興に向けて動いており、本能寺の変がおきたため、豊臣秀吉があとを引き継ぎ、復興を遂げています。これについては、神宮のHPにも記載されています。

 

 

信長公がいらしたからこそ、戦国時代の終焉に早く近づいた。そんな信長公について動画を含めまとめてあります。また大川周明が『日本二千六百年史』に書いた信長についての文章を抜粋してあります。↓

 

大川周明は、信長公は人材登用に非常に優れていたと『壇上の大川周明』で語っています。人を用い、人を導くのに比類ない大将であったと。それを明智光秀に謀反を起こされたがために、本当にそんな大才があったのかと、疑問に思われてしまうほど無実なことはない。彼は最も泳ぐものが、運悪く溺れたに過ぎないのだとも。

 

 

月の満ち欠けについてわかりやすく書かれた絵本

 

 

 

 

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