永正14年5月29日、1517年6月18日は後奈良天皇の第二皇子、方仁(みちひと)親王が誕生された日です。

方仁親王は後の正親町天皇です。

つまり昨年は正親町天皇御生誕500年の日でした。

 

※せっかくの特別な年でしたが、昨年この書きかけのままこのブログを完成できませんでした。本当に申し訳ないです。御歴代の天皇が124代もいらっしゃいますから、このような日がありますし、式年祭の年に当たる天皇もいらっしゃいます。見逃してしまったり書こうとして書き上げることができないこともあり本当に申し訳ないです。

 

 

後奈良天皇は、世界史上一番貧窮したともいわれる天皇で、神宮(伊勢)には謝罪のための宣命が残されています。これは後奈良天皇の祖父である後土御門天皇の時代である応仁元年(1467年)応仁の乱が勃発し戦国時代へ突入したことによるものでしたが、その応仁の乱から50年目の年に方仁親王はご誕生されました。

 

弘治3年(1557年)10月27日に後奈良天皇の崩御に伴って方仁親王は践祚され、41歳で即位された時(正親町天皇)、朝廷の財政は逼迫したままで公卿たちも貧窮し、戦国大名の毛利元就の献上金により即位後三年にしてようやく即位の礼を催行できています。この年には第三次川中島の合戦がありましたし、その翌年には木下藤吉郎が織田信長に仕え始めた戦国時代真っ歳中の時代のことでした。

 

武士の時代や長い戦乱の時代を経て、皇室や朝廷の権力はないも同然となっていましたが、そのような時代になればなるほど、悠久の時代を経てきた天皇と朝廷の権威が見直される時代になっており、京に上ることが戦国武将の目標にもなってきた時でもあります。それはこのような時代の中でも貧窮の中で御歴代の天皇が平安の願いを祈り続け働きかけたこともあるかもしれません。

 

 

この当時の天皇について分かりやすく書かれている本があります。戦前に発禁されたりもしながらベストセラ―となった「日本二千六百年史」という本です。

 

現在読むとなぜ発禁になったのかわからないほどの内容です。昭和16年の初版本が削除された部分も含め復刻され販売されていますが、その信長の章をみると、信長の生きた当時天皇についてどのように考えられていたのか、またこの本が書かれた当時どのような本が読まれていたのかがとてもわかりやすいです。

 

以下抜粋↓

(足利)義昭は信長の庇護によって征夷大将軍となることが出来たので、頻りに信長を菅領にしようと努めたけれど、彼は辞して受けなかった。また朝廷からは副将軍の職に就くようにと諭されたけれど、これまた固辞して御請け致さなかった。この事実並びに彼が平氏を名乗った一事は、彼の雄心荘図を明らかに物語っている。天下を取ろうという信長に、吹けば飛ぶような足利将軍の菅領が何するものぞ。彼が一向平氏の子孫という確証もないのに平氏を名乗ったのは、源平交送(こうてつ)という当時の信仰に基づき、「源氏たる足利氏に代わって新たに興るべきは平氏である。天下を一新する為には、平氏を名乗るが最も好都合である。」と考えたからである。もとよりかかる思想は、信長のみに限ったことでない。北条早雲の如きも、すでに伊豆の三島神社に願文を捧げ、「もはや源氏の世も末である。自分は代わって興るべき平氏であるから、何卒神明の冥加によって天下を取りたい」と祈っている。また徳川家康は初め松平性であったのが、永禄九年に、自分は新田氏の子孫であるから、徳川という姓に復したいと朝廷に奏請し、勅許を得て初めて徳川氏を名乗っている。新田氏は義貞以来足利氏の宿敵である。しかるにいまや足利氏が衰えて、新田氏が興るべき時が来たという同一の思想から、徳川の姓に復したものと思われる。されば、信長が平氏を称し、菅領または副将軍に就職しなかったことは、偶々彼の抱負を物語るものである。

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『信長記』『太閤記』に信長のことを叙して屡々「天下速成の治功」と賞讃しているが、天下速成の一語、言い得て実に適切である。乱世久しく打ち続き、日本の政道地を払える時、天下を一統して太平の基礎を荒ごしながらも置くためには、信長の如き人物に俟たねばならぬ。彼の性格は、あたかも天が心ありて当時の日本に下したかと思われるほど、かかる役割を勤めるに適わしくある。而して彼が天下一統の中心を皇室に求めたことは、今日より見れば当然至極のことに過ぎないけれど、彼の時代にありては実に絶倫の識見と言わねばならぬ。禁庭の右近の橘の下に茶店が出来、宮殿の縁側に少年が泥を捏ねたる時代なりしに拘らず、透徹曇りなき信長の精神は、日本の国家が皇室を中心とせねばならぬことを明らかに洞察した。故に、彼はその大業の当初より、日本国家の新しき秩序は、国民の心の奥深く根ざし、千秋万古抜くべからざる尊皇心を基礎として築き上げねばならぬことを知っていた。見よ、彼は足利義昭を奉じて京都に入りしその時から専ら心を皇室に傾け、先ず三年の月日を費やして紫宸殿、清涼殿、内侍所、昭陽殿及びその他の局を造営し、京都の町人に米を貸し付け、その利息を毎月の御入費に差し上ぐべきことを定め、暫く眠れる国民の尊皇心を覚醒し、皇威の確立と共に自己の権威を重からしめ、之によって国家建設の業を容易ならしめた。吾らはこの点に於いて深く信長の大智に服する。

 

さて信長の突然の死は、折角統一の途に就きたる事業を破壊し去れるものなるが故に、世は再び乱れるかに見えたけれど、彼によって一統に向かわしめられたる時勢の潮は、彼去りても逆流することなく、加うるに彼の遺業は深き印象を世人に与え、天下皆その向かうところを知りたるが故に、豊臣秀吉先ず彼の志業を継いで全日本を統一し、次いで徳川家康が、信長・秀吉の築ける基礎の上に巧みに自家の権力を確立し、幕府を江戸において日本の政権を掌握し、以来明治維新に至るまで約二百六十年間、家康の子孫が日本の実際の支配者となった。

 

つまり日本をまとめるには皇室が中心にある必要があるということを信長が考えて行動し、また同時代の他の武将もそう考えて動いたというのです。そして、室町幕府の歴史といえば天皇を蔑ろにしてきた歴史といってもいいのです。

 

だからこそ、正親町天皇はこの信長に様々な命令をしています。高野山の真言宗堂塔の破壊を止めるように命じ、足利義昭との戦いや石山本願寺との戦いにおける講和も全て正親町天皇の勅命であり、あの有名な延暦寺焼き討ちも永い間延暦寺の僧の不法が続いていたため、天皇も朝廷も信長に抗議していません(なお延暦寺発掘調査によれば全山焼き討ちはかなり誇張されているそうである)。これにより平安時代末期より続いてきた僧兵の凶悪を壊滅させたからです。当時の僧侶を今のイメージで考えると違うのです。

 

織田信長が足利義昭に勝利して義昭を放逐し室町時代は滅亡し安土桃山時代となりますが、有名な本能寺の変が起き、信長も亡くなってしまいます。信長は120年間中断されていた伊勢の遷宮の準備を行っていたのですが、それを秀吉が引き継いで行っています。

 

天正14年、正親町天皇は秀吉に豊臣の姓を賜って太政大臣に就任させ、豊臣政権が発足しました。この年に皇孫の和仁親王に譲位され(後陽成天皇)その七年後に崩御されています。

 

戦国時代というととかく戦国武将ばかりが取り上げられますが、その背景には正親町天皇という戦乱の時代にありながらも変わらず権威を持ち続けた天皇の存在があったからこそ、信長秀吉を経て天下統一が成し遂げられたという事を忘れてはならないと思うのです。

 

久野潤さんが、語る信長や秀吉の話を聴くと当時の見方が随分変わると思います。