★第八十代高倉天皇は平安時代末期の天皇です。



一一六一年生。

御名は憲仁(のりひと)。


御父は後白河天皇、御母は平滋子皇太后(建春門院)。


在位一一六八年から一一八十年。

 


平滋子は、平清盛の妻の時子の異母妹で後白河上皇の別格の寵愛を受けました。「言葉にできぬほど美しく若々しい」と称えられた美貌で入内することになり、終生愛されたといいます。また、後白河上皇が不在の折りには代わりに奏聞を受けるなど政治的発言力も持っていたといいます。その血を受け継いだ憲仁親王も色白で美しい容姿だったといいます。

 

 

第七皇子であった憲仁親王が、六条天皇の譲りを受けて即位したのは八歳、六条上皇はまだ五歳でした。この高倉天皇の即位は清盛の武力を背景に行われており、後白河上皇の権力の掌握がこれにより確立したといいます。

 

 

高倉天皇は十二歳で清盛の娘徳子を中宮とし、六年後の一一七八年には言仁親王(後の安徳天皇)が誕生しました。

 

しかしその間に建春門院が崩御されており、後白河上皇と平清盛の間を繋ぐものがいなくなっていました。

 

そして言仁親王誕生の同じ年に鹿ヶ谷の謀議が発覚しています。これは後白河法王近臣の平家打倒謀議です。以前から後白河法王と清盛との権力争いが激しくなっていましたがこの後は極端に悪化、清盛は法王を幽閉して院政を停止させ、法王は源氏に肩入れするようになるのです。

 


高倉天皇は優しく穏やかな人柄で、父と岳父の間で心を痛めていたといいます。そのためか、言仁親王への譲位の翌年二十一歳で崩御されました。

 

この後、激動の時代の中、高倉天皇の皇子や皇孫達が次々と皇位に就き、皇統を繋いでいくことになります。

すめらぎのお話・・・稽古照今の不思議な流れ

 

 

一一八ー年崩御。

 

御陵は後清閑寺陵  、京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にあります。

 

 


★第百六代正親町(おおぎまち)天皇は室町時代末期から戦国時代時代末期の天皇です。



一五一七年生。

御名は方仁(みちひと)。


御父は後奈良天皇、御母は万里小路栄子。


在位一五五七年から一五八六年。


歴代の天皇の中で一番貧したと言われる後奈良天皇の第二皇子の方仁親王が、天皇の崩御後践祚しました。この年織田信長は弟の信行を討って尾張を統一、武田信玄と上杉謙信が川中島で三度目の決戦をしています。朝廷は相変わらず困窮しており即位式ができたのは三年後の一五六十年のこと。毛利元就らの献金のおかげでした。


即位から十年あまり後、信長が美濃を平定し天下統一の野心を示すと、天皇は誠仁親王の元服料の献上や尾張と美濃の御料地の回復を命じます。朝廷と織田家の関係はそれぞれの父の時代にもあり、織田信秀は後奈良天皇へ内裏修理費用をとして銭四千貫文を献上していました。

一五六八年、正親町天皇を守護するという名目で上洛した信長は、京都を制圧すると皇室の再興に乗り出し、皇室御料地の回復、朝儀復興の資金援助、御所の修理などを行いました。こうして天皇の勅命を引き出し天下統一に利用したのです。

 

 

 


また、正親町天皇も信長の武力・財力・政治力を皇権の復興に利用し、講和を仲介することで自らの権威と価値を高めました。


手厚い皇室重視策をとる信長に応えて、天皇は度々講和の勅命を出した他に、香木蘭奢待(らんじゃたい)を与えています。これは正倉院に安置されている香木で、王者が焚く香木といわれています。

天皇が特に大きく動いたのは、信長と石山本願寺との和解の仲裁でした。信長が手を焼いていたものですが、天皇自ら和解を勧める文書をしたため勅使を二度も派遣したのです。


一五八ー年、信長は正親町天皇の臨幸を仰いで「御馬揃」を行い、最後には自ら暴れ馬で場内を駆け巡り、剣をふるい矢を投げ、武力を誇示しました。これに対して正親町天皇は、太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じ慰撫しようとしましたが、信長は返事をしないまま本能寺へ向かい明智光秀に攻められ自害しました。

 



その後天下人となった豊臣秀吉も信長路線を継承しました。低い身分から成り上がった秀吉には皇室の権威は欠かせず、また皇室にとっても権力者との連携が必要だったのです。

一五八六年孫の和仁親王に譲位し、その七年後七七歳で崩御されました。


一五九三年崩御。

 


御陵は深草北陵、京都市伏見区深草坊町にあります。

 

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参照:「宮中祭祀」
「天皇を知りたい」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」