第三代安寧天皇は伝承上ともいわれる時代の天皇です。それは古事記でも日本書紀でも記載が少ないからだといいます。しかし偉大な創業者のすぐ後は、陰に隠れてしまうことはよくあることであり、記載が少ないからその御代がなかったということにはなりません。

 

また葛城の神である事代主の娘と神武天皇から三代続いての婚姻が続くことから、地域の地盤固めを行っていたともいわれます。婚姻は地域との結びつきを意味します。日向から来た一族には重要なことで、地域との繋がりができなければ繁栄もありえませんから、そうした代々の地道な活動があったからこそ、後の崇神天皇の時代の大きな活躍に繋がっていったといえるわけです。

 

「建國の正史」において森淸人氏は、

「古事記を通覧してもわかるように、古事記が最も力を注いで記しているのは、御歴代の系譜であって、仁賢の巻以後はただそれだけを記してあり、書記にあっても皇室の系譜及び皇位継承の記事がほとんど各巻の中心を成している。」

と書かれています。つまり記紀の記述は事績に関する記載が少ないのではなく、一番重要なことのみ記載されていたということになります。つまり婚姻についてしか記載されていないのではなく、婚姻での地域との結びつきによる系譜が重要だから記載されているということになります。


御名は磯城津彦玉手看命(しきつひこたまてのみこと)。

 

御父は二代天皇の綏靖天皇、御母は五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)、事代主神(ことしろぬしのかみ)の次女。

 

二十一歳で皇太子となり、その八年後綏靖天皇が崩御され即位しました。

 

古事記によれば四十九歳で、日本書紀によれば五十七歳で崩御され、第二皇子の大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきともひこのみこと)が即位されました(懿徳天皇)。


御陵は畝傍山西南御陰井上陵、奈良県橿原市吉田町にあります。

 

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畝傍山は橿原神宮の後ろにある山ですが、神武天皇陵に始まり綏靖天皇陵、安寧天皇陵、懿徳天皇陵、と四代の御陵に囲まれています。私はレンタサイクルで1時間ほどで山の周囲を回り御陵に参拝したことがありますが、立地にも興味深いものがありますので、お近くにいらしたら是非参拝してみて下さい。なお、神功皇后の墓といわれる神社もあります。

 

橿原神宮の向こうに見えるのが畝傍山です。

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日本建国の時代が分かりやすくなる本


 

第五十六代清和天皇は平安時代の天皇で、文字による記録が始まって以降幼くして即位した初めての天皇です。また臣籍降下した皇子の多くが武門の棟梁となる清和源氏の祖先となりました。

 

皇族が臣籍降下し源氏姓を賜る二十一の流の中で有名な清和源氏とは、清和天皇の皇子や諸王を祖とする氏族です。その子孫には酒呑童子退治(鬼退治)で有名な源頼光、八万太郎義家、そして源平の対立で登場する各源氏も清和源氏でその棟梁となったのが源頼朝です。頼朝は鎌倉幕府を起こしました。室町幕府を起こした足利尊氏の足利氏も清和源氏の名門です。戦国時代になると自称清和源氏を名乗る武家が続出したのは鎌倉幕府、室町幕府と清和源氏が起こしたことが続いたためと言われています。


 御父は文徳天皇、御母は藤原明子。


嘉祥三年(850年)生。


御名は惟仁(これひと)。


皇子の御名に「仁」の字が使われるようになったのは、清和天皇の御名が始まりとなり第百代後小松天皇以降、女性天皇以外の全ての天皇の御名に「仁」は使用されており、皇室男児の名前の通字となっており、天皇を知る上で避けて通れない字になっています。

 

 

 

在位、天安二年(858年)から貞観十八年(876年)。


文徳天皇が急逝し、皇太子の惟仁親王が即位しましたが、御歳九歳。初めての幼帝でしたので、外祖父の藤原良房が実質上の摂政となり全権を握りました。皇族以外で摂政となったのも初めてのことです。

 

貞観八年(866年)、応天門の変が起きます。応天門が燃え、この犯人や共謀者として、有力者だった大伴氏や紀氏らが罰せられ、また名前の上がった源氏らも中央から外れました。有力者がいなくなることで、その後の藤原氏一門への権力の集中に繋がっていきました。

 

貞観十八年(876年)、第一皇子である9歳の貞明親王へ譲位(陽成天皇)、その二年半後出家し畿内巡幸の旅に出、激しい苦行も行いました。

 

清和天皇の時代には、確認できる世界最古(確認できる)の隕石落下があり、福岡県の武徳神社(現、須賀神社)の境内に落下し今でも神社に保管されています。(この隕石は5年に1度の大祭時に公開されており、HPには2016年時の写真が掲載されています。次は2021年でしたが、検索しても出てこないのでコロナ禍で行われなかったのでしょうか?)

 

 

また富士山の大噴火がありましたし、貞観地震と地震に伴う津波が起きました。地震と津波の際には、清和天皇は陸奥国と常陸国の国境が最大の被災地との詔を発せられています。

 

さらに貞観の新羅の韓寇が発生し、新羅の海賊が博多湾に停泊していた船を襲撃し略奪を行っていました。韓寇は新羅国内の混乱により、弘仁二年(811年)から新羅が滅亡する承平五年(935年)までの百年に亘って新羅の賊徒が日本各地を侵略していたことをいいます。この時期、新羅は既に国としては崩壊しており、国内の新羅人が内応しているため大宰府管内の在留新羅人を全て陸奥などに移し帰化させました。この時新羅は、「対馬島を討ち取らんが為なり」と豪語したといいます。対馬は古来から狙われていたことが歴史をみるとよくわかります。

 

天皇は伊勢に勅使を遣わされて奉幣され、新羅の海賊が博多に侵攻したこと、陸奥国での地震や津波で大被害が発生したことについて報告され、御自身の不徳を詫びられ、国家の平安を祈願されました。

 

こうしたことが続いたことがまだ九歳の皇子への譲位へ繋がったと思われます。さらに前年以来の干魃により飢饉が発生し、マグニチュード7.4と推定される相模武蔵地震が発生しています。そこで元号の貞観を元慶に変え、上皇は出家されたのです。上記の、畿内巡幸と激しい苦行をされたのは、このためだったと推察できます。日本のために譲位、出家し苦行する天皇がいた国が我国です。これは一貫して大御宝である民を思う大御心の表れだと思うと本当に有難い国が我国です。

 

譲位された五年後、元慶四年(881年)崩御。


御陵は水尾山陵、京都市右京区嵯峨水尾清和にあります。その御陵から、水尾帝とも呼ばれました。

 

御陵の近くには清和天皇社があります。

 

また兵庫県には清和源氏発祥の地として源氏五公を祀る多田神社があります。

 

英照皇太后の祭日

英照皇太后は、孝明天皇の女御で明治天皇の嫡母(実母ではない)の九条夙子(あさこ)。貞明皇后の伯母。昭和天皇からは義理の曽祖母であり、血縁上の大伯母となる。

 

第一皇女と第二皇女が生まれましたが、夭折したため勅命により中山慶子から誕生された第二皇子の祐宮睦人親王(明治天皇)を実子とされました。

 

三三歳の時孝明天皇が崩御されたため、明治天皇即位後の慶応四年三月(1868年)、皇太后に冊立。皇后を経ずして皇太后となりました。

 

東京奠都後は、赤坂離宮に遷御、後に赤坂御用地に遷られています。

 

明治三十年(1897年)、崩御されました。御陵は孝明天皇と同所の、京都市東山区の後月輪東北陵にあります。御寺泉湧寺の奥にあります。

 

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 参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
「宮中祭祀」
「古事記」
「全現代語訳日本書紀」

 

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