天武天皇の第六皇子に舎人親王という皇子がいらっしゃいました。

 

その御尊母は天智天皇の皇女の新田部皇女(にいたべのおうじょ)でしたから母方も天皇の血筋の皇子でしたが、天武天皇が有力皇子同士助けて争わないことを誓わせた吉野の盟約当時はまだ3歳と幼く加わっていません。

 

第六皇子でしたので皇統からは遠く、しかし天武天皇の諸皇子の中では長命でしたので、長屋王とともに皇親勢力として権勢をふるい、「日本書記」の編集も総裁し養老四年(720年)五月に完成奏上しています。3年前は日本書紀編纂千三百年という記念すべき年でした。

 

 

 

 

持統天皇九年(695年)に浄広弐に叙せられてから、元正朝の養老二年(718年)には二品から一品に昇叙、右大臣藤原不比等が養老四年(720年)八月に亡くなった時には直後に知太政官事に任じられ政界の動揺を防ぐ役を担ったことが当時の存在の大きさを物語っています。

 

聖武天皇の時代、天平七年十一月十四日(735年12月2日)当時流行っていた疫病、天然痘の流行で薨去されました。このとき太政大臣を贈られ葬儀には皇族全員が参列されたといいます。本日は旧暦の11月14日ですから、旧暦で考えれば1288年前の本日となります。

※改暦は何度もありましたので、単純に旧暦にあてはめています。

 

舎人親王が薨去された時まだ三歳の第七皇子の大炊(おおい)王がいましたが、幼いうちに父が薨去されたことで後ろ盾がなく注目されることもなく成長しました。

 

成長した大炊王は藤原仲麻呂の長男で故人の真従の未亡人である粟田諸姉を妻に迎え、仲麻呂の私邸に住み仲麻呂と深く結びついていました。藤原仲麻呂は、孝謙天皇の母である光明皇后が藤原氏出身であることから、それを後ろ盾に持つ有力者でした。そんなことから、孝謙天皇の時代に立太子した道祖王が廃された時、仲麻呂に推されて大炊王が立太子することになったのです。その時推された理由の一つには、父君の舎人親王が天武天皇と天智天皇の両方の血筋を引いていたことがあったといいます。

 

天平宝字2年(758年)孝謙天皇は譲位され、大炊王は践祚し即位(淳仁天皇)、その翌年には天皇の父として舎人親王は崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい)と追号されました。日本では天皇といい皇帝とはいいませんが、本当に皇帝号のある方がいたわけです。

 

しかし、淳仁天皇には実権はほとんどなく藤原仲麻呂が握っていました。ところが光明皇后が薨去後、孝謙上皇が病となりその看病をしていた弓削道鏡を寵愛するようになったので、これを藤原仲麻呂の進言により諫めた天皇に激怒。その後、恵美押勝(仲麻呂)の乱が発生し失敗に終わると天皇は最大の後見人を失い、乱に加わらなかったものの仲麻呂との関係が深かったことを理由に上皇から廃位を宣告されてしまうのです。そして親王の待遇をもって淡路国に流され幽閉されてしまいました。

 

孝謙天皇は重祚して称徳天皇となりましたが、淡路の廃帝の元には通う者が多くあり、復帰(重祚)を計る勢力があったことから危機感をもった称徳天皇は警戒の強化をしました。そしてその後、廃帝は逃亡を図りましたが捕まりその翌日崩御されました。このことから廃帝は殺害されたのではといわれています。

 

淳仁天皇は称徳天皇の意向により長く廃帝または淡路廃帝と呼ばれていましたが、明治3年に追号され淳仁天皇となりました。舎人親王は薨去24年後に崇道尽敬皇帝と称号を贈られましたが、その子の大炊王は崩御後1105年後に追号されました。なお、現在の歴代の天皇の名前は漢風諡号に始まるものですが、その漢風諡号が最初に贈られたのは淳仁天皇の時代です。それまでは和風諡号が贈られていましたが、この時初代神武天皇から持統天皇までと元明・元正天皇の歴代の天皇へ贈られています。

 

 

 

なお、淳仁天皇の同母の兄に三原王(御原王)がいましたが、その子孫が清原氏となります。その清原氏には万葉集の解読をした「梨壺の五人」の一人である清原元輔がいました。その娘が清少納言です。つまり、舎人親王の子孫が「枕草子」を書いたというわけです。

 

京都の伏見にある藤森神社には舎人親王が祀られています。ここでは新暦の11月14日に舎人親王祭が行われています。また伏見大社の楼門前には舎人親王が祀られている藤尾社があり、元々藤森神社はそこにあったものが現在地に遷座したと伝わり神輿もここに渡御し神事が行われているとのこと。

 

 

奈良には舎人親王が日本書紀編纂するにあたって厄年にあたっていたため厄除けのために建立したお寺、松尾寺があり、日本最古の厄除霊場となっています。こちらでは春に誕生祭が行われています。また唯一の舎人親王像があります。

 

 

同じく東明寺も舎人親王により建立されたお寺です

 

 

淳仁天皇は、妻の義父である藤原仲麻呂(恵美押勝)の後ろ盾により天皇に即位しました。だからこそ、恵美押勝の乱の後、廃帝とされてしまうわけですが、その後も天皇の下に通う人がいたということは人望があったのだと思います。そしてだからこそ、称徳天皇に牽制され暗殺されてしまったのだといえるかと思います。

 

いつの時代も後ろ盾がいるかいないかは大きいのだとこうした歴史をみるにつけ考えさせられます。皇統の後継者の多くが様々な事件に巻き込まれていた時代に廃帝となった淳仁天皇は、その運命がどうなっていくのか抗い戦ったのではないかとと思われます。

 

なお、藤森神社は駆馬や菖蒲が尚武・勝負の連想により武神が多く祀られていることや明治時代以降周辺が軍用地であったことなどから、馬や武運の神社として信仰を集め、今では馬と勝負事の神様として競馬関係者の信仰を集めて、競走馬の絵馬が多数奉納されています。また11月には駪駪祭(しんしんさい)という競馬と馬を愛する人たちの祭典が行われています。

 

 

 

 

 

 

 

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