本日は、奇しくも法皇、天皇でさえも世の無常を感じずにはいられなかったことが特にわかりやすい天皇の祭日が重なった日です。昔も今も、世の無常は変わりませんが、現在の私達と同じ感情を共有していたであろうことを実感しやすい天皇であるといえるかと思います。
 

 

第五十九代宇多(うだ)天皇は平安時代の天皇、菅原道真を引き立てたことでも有名な天皇です。

御父光孝(こうこう)天皇の第七王、御母は桓武天皇の孫の班子(はんし)女王。

御名は定省(さだみ)。

貞観九年(867年)生。

在位、仁和三年(887年)から寛平九年(897年)。

宇多天皇の父光孝天皇は五十五歳で即位し、即位と同時に四十五人のうち二十九人の皇子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を伝えない意向を表明しました。しかし初の関白となった藤原基経に遠慮して皇嗣を決められない天皇は、第七皇子の臣籍降下した源定省を侍従として側近にしており、その皇嗣を望んでいたのを基経は察していました。基経は病身の天皇に、定省の立太子の奏請をし、定省は皇族に復帰し親王となり立太子の詔が出されました。こうして天皇の崩御後即位され、臣下から天皇に即位した唯一の例となったのが宇多天皇です。

その即位後まもない時期に、藤原基経に関白を命じる勅書を発給したところ訂正をさせられる事件がありました(「阿衡の紛議」)。そのため基経が没すると、宇多天皇は関白は置かずに親政を行い、政治改革もして成果もあげ、後に「寛平(かんぴょう)の治」と呼ばれ高く評価されました。それを支えていたのが菅原道真です。道真の建議により遣唐使が廃されたのは、和風文化が花開くきっかけともなりました。「阿衡の紛議」の際にも道真が仲裁に入り解決しています。

寛平六年(894年)八月に菅原道真は遣唐大使とされましたが、九月には道真の進言で遣唐使は廃止、終了となりました。この年の五月には新羅の賊が肥前国・肥後国の各地を襲っており、九月にも大群が対馬に押し寄せていました。新羅は国として破たんしており、そういう隣国を避け航行し優秀な人材を遣唐使として送っても戻って来られるのはその半分という危険性。また唐に学ぶものがなくなっていたことも廃止の理由としてあったといいます。しかしこのことが遣唐使派遣による利権を受けていた人達から恨まれる一因ともいわれます。

宮中祭祀の一つ「四方拝」は宇多天皇が現在の形に確定しました。毎朝伊勢をはじめとする四方の神々を拝するのです。日記には「わが国は神国である。よって毎朝四方の大中小の天神地祗を敬拝することにした」(仁和四年:888年)とあります。

 

宇多天皇は二歳年上の陽成上皇の存在を常に意識されておりました。というのも上皇が復位を意図しておられるという風説に悩ませられていたからです。そのため在位十年後突然第一皇子の皇太子敦仁親王を元服させ譲位しました(醍醐天皇)。

宇多天皇は、基経の長男の藤原時平(藤原北家)を参議にする一方で、源氏や藤原保則や道真と言った藤原北家嫡流でない人も抜擢してきましたが、また譲位直前の除目(諸管の任命)で菅原道真を権大納言に任じ、大納言で太政官最上席だった藤原時平を次席とし、時平と道真双方に内覧(天皇に奉る文書、天皇が裁可する文書の一切を先に見る冷外官の役職)を命じ、朝政を二人で牽引する形をとられました。道真が26歳年長でありごく自然で当然のことであったけれども、この人事に藤原氏一族が反発し職務を拒む事件となります。そのため、道真は醍醐天皇に願ってこれらの公卿に出仕を命じてもらい親政が始まることとなりました。

しかし上皇がこれら一連の断固たる措置をとられたことが、後の昌泰の変に繋がったといいます。

醍醐天皇の代には、道真は右大臣にまで昇りつめます。しかし学者が大臣にまで出世した例は吉備真備以来のこと。左大臣の藤原時平を筆頭に道真の出世は疎んじられ、ついには謀反を計画したとされ左遷(失脚)させられたのです(昌泰の変)。道真は娘婿である醍醐天皇の異母弟の斎世親王を皇位につけようとしていると讒言されたのです。道真は潔白を宇多法皇に訴え、宇多法皇は左遷を阻止すべく禁裏御所に出向きますが門を閉ざされ入れず阻止できなかったのです。そして、道真は左遷先にて憤死しますが、その後道真の左遷に関わった人達に不幸が続き、道真の怨霊のせいだと言われるようになりました。

 

怨霊になってしまった人たちに共通すること、それは無実であったにもかかわらず貶められた人たちであったということです。そして、どんなに貶められても世の人々は騙せなかったということがわかります。

 

宇多上皇は、譲位の二年後出家して仁和寺に入り法皇となっていました。天皇が法皇となられた初例ともなりました。その年号から寛平法皇とも称されたそうです。しかし、政治から遠ざかっていた隙に道真の失脚が図られたとも言われています。目の前の陰謀を阻止できなかった宇多法皇の無念さもどかしさはいかばかりであったかと、1120年以上後の私でもその悔しさを感じることができます。人の行うことは、時代を経てもこんなにも変わらないということが歴史を知ると繰り返し登場します。なぜこれを教訓にできないのか、生かせないのか、今現在の私自身がそれを強く感じ考えているところでもあります。


仁和寺は父帝、光孝天皇の勅願で建て始めた寺が即位直後に完成したもので、皇族や公卿の保護を受け明治の御世に至るまで、皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務められ、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括しました。現在は世界遺産となっています。

 

 

なお近隣、金堂から南西に位置する福王子神社は、宇多天皇の母君の班子女王の陵墓が付近にあったことから江戸時代に祀られた神社ですが、仁和寺の守護神ともなっています。元は延喜式に名前がみえる深川神社だったのですが、応仁の乱で焼失したものを再建した時に、名前も変わったもので、神社名の由来は班子女王が多くの皇子女を生んだことに由来するといいます。福王子祭は、仁和時と福王子神社合同で開催されており神主さんと僧侶が一緒に般若心経をあげる動画がツィッターにはアップされています。

 

 

宇多法皇には皇子皇女が多数あり、孫はほとんど源氏の姓を賜り宇多源氏となりました。

承平元年(931年)崩御。

追号は、譲位後の在所の宇多から追号されたといいます。

御陵は大内山陵、京都市右京区鳴滝宇多野谷にあります。

 


第百一代称光(しょうこう)天皇は室町時代の天皇です。

御父後小松天皇の第一皇子、御母は権大納言日野資教の養女、藤原資子(すけこ)。

諱は躬仁(みひと)。また字をあらため實仁(みひと)としました。

応永八年(1401年)生。

在位、応永十九年(1412年)~正長元年(1428年)。

南北朝合一後最初の天皇となった後小松天皇は、両統送立(りょうとうてつりつ)によれば、次は南朝の後醍醐天皇の系統の皇子に践祚するはずでしたが、足利義満の意図により約束は反故にされ、息子に譲位、即位したのが称光天皇です。

即位の時十二歳と幼いため後小松天皇が院政を敷かれました。

応永二十六年(1419年)に、倭寇討伐と称して李氏朝鮮が対馬を侵略する応永の外寇が起きました。対馬の有力者の留守中を狙ったもので、一般船舶129隻を焼き、20隻を奪い、民家2000戸を焼き払った上で104人の島民を殺害、対馬の宗氏に属州化を要求しましたが宋氏は拒絶しました。三年後に将軍足利義持に拝謁しやっと和解しましたが、この事件以降対馬や北九州の諸大名の取り締まりが厳しくなり、外人倭寇の帰化を許すなどの懐柔策も取り前期倭寇は沈静化していきました。

称光天皇は身体が弱く皇子不在のまま崩御となり、皇統断絶の危機となります。皇太弟の小川宮は既に薨去されていたからです。そのため後小松院は、北朝第三代崇光天皇の孫である伏見宮貞成王の子の彦仁王を後小松院の猶子として即位させました(後花園天皇)。またこれにより、南朝系の天皇の即位が絶たれ、以降現代までの皇統となっています。

正長元年(1428年)崩御。

称光天皇の追号は、第四十八代称徳天皇と第四十九代光仁天皇の名前を組み合わされたといいます。

称光天皇は身体が弱く、皇子もいなかったため、同母の弟の小川宮が皇太弟となりましたが、問題ばかり起こしていたため、子を為せない自分と、このような弟を皇太弟としなければならないことに歯がゆさややるせなさを感じていたのではないかといわれています。また、治天の君である後小松天皇を仰ぎながらも、病がちでなにも意のままにならないことへの不満もあったであろうといわれています。さらに、病弱であり何度も命の危機があったことから責任を問われるのを恐れた僧侶からは何度も病気平癒の祈祷の拒否にあい、そうした中崩御されています。称光天皇には問題行動が多くあったという記載が多くありますが、疑心暗鬼の誰も信じられない状況に陥っていたことも伝わっており、こうしたことまで知ると、天皇という重圧と責任とともに疎外感まで感じられ、なにもできないことへの悔しさと悲しみまで伝わってきます。

御陵は深草北陵、京都府京都市伏見区深草坊町にあります。火葬されており、火葬は御寺泉涌寺でされました。

 

 


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参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「怨霊になった天皇」
「旧皇族が語る天皇の日本史」
「日本の天皇」
「神国日本」
「歴代天皇で読む日本の正史」
「正論SP Vol2 天皇との絆が実感できる100の視座」
「室町・戦国天皇列伝」他

 

 

目の前でなにもできないことの無常観とは、いつの世も存在していることでしょう。2年前の夏以降、そうした無常観をより深く感じている人達も多いと思います。もちろん何もかもが思い通りになることなどないことは誰もがわかっていることでもありますが、目の前で悲劇が起きた時、手をこまねくことしかできないことほど悲しいことはありません。

 

またそうした要因の一つに妬みなどがあることも多く、いつの時代も変わらぬ人間の業を戒めた教えを生かせないものか、とも思うのです。

 

 

 

 

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