菅原道真公を祀る天神様では、毎月25日を天神さんの日としていますが、これは道真公のお誕生日が6月25日であることと、薨去されたのが2月25日であることに由来しています。
 
本日は道真公の命日として(新暦ですが)、この時期は各地の天神様で祭典が行われています。
 
菅原道真公は、学問の神様として著名ですが、その神様の始まりは怨霊として恐れられ祀られたことから始まります。ではなぜ、怨霊とされたのか?といえば、学者の家系に生まれた菅原道真公がその優秀さから異例の出世をし右大臣までになり活躍されていることを妬んだ人々に言われなく謀反の噂をたてられ右大臣から左遷され京都から大宰府に赴かれた中失意の中薨去されたことによります。いわれなき悪意を起こした人達が良心の呵責により誕生させたものが怨霊であり、そうした良心の呵責を鎮めたものが怨霊信仰です。そうしたことの後に起きた凶事を全て怨霊のなせるものとして恐れたのです。
 
いかに怖れられたかといえば、薨去された延喜3年(923年)から20年後の延23年には右大臣と正二位が贈られ元の地位に戻され、さらに永延元年(987年)には、一条天皇から北野天満宮祭神の称号が贈られています。そして、その後も正歴4年(993年)5月に正一位左大臣、10月に太政大臣の地位が贈られているのです。
 
 
菅原道真公を神として祀られた北野天満宮ご由緒にはこうあります。
 
北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947)に、西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが当所に神殿を建て、菅原道真公をおまつりしたのが始まりとされます。その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念されました。この時から「北野天満天神」の神号が認められ、寛弘元年(1004)の一條天皇の行幸をはじめ、代々皇室のご崇敬をうけ、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められてきました。
江戸時代には、各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室に天神さまがおまつりされたり、道真公のお姿を描いた「御神影」が掲げられて、学業成就や武芸上達が祈られてきました。このことがのちに「学問の神さま」、「芸能の神さま」として皆さまに広く知られるようになった所以です。
現在、全国各地には道真公をおまつりした神社が、およそ1万2000社あるとも言われ、その多くは当宮から御霊分けをした神社です。

 
 
また菅原道真公についての案内にはこうあります。
 
北野天満宮のご祭神である菅原道真公は、幼少の頃より学業に励み、情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作るなど優れた才能の持ち主でした。学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、異例の出世を重ねられた道真公は、昌泰2年(899)右大臣の要職に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括されます。ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰4年(901)大宰権帥に左遷され、そのわずか2年後、大宰府の配所にて波乱の生涯を閉じられました。道真公の清らかで誠実な人柄と晩年の不遇はさまざまな伝説を生み、やがては天神さまと崇められ、現代でも盛んな信仰へと展開します。また、「文道の大祖・風月の本主」と仰ぎ慕われ、学問の神さまとしての信仰は昔も今も変わることなく、人々の生活のなかで受け継がれています。道真公の精神は「和魂漢才」の四文字に集約されるように、自国の歴史と文化にしっかりとした誇りを持ち、他国の文化も受けいれる寛容さが特徴です。道真公が生涯一貫された「誠の心」は、今も日本人の心に生きつづけています
 

 
そしてご神徳として7つあげられいます。
一、農耕の神
一、正直・至誠の神
一、冤罪を晴らす神
一、学問・和歌・連歌の神
一、渡唐天神
一、芸能の神
一、厄除けの神
 
 
神社のいわれを知ることは歴史を知ることだということがよくわかるかと思います。
 
 
菅原道真公を信任し活躍させた宇多天皇の、その父君である光孝天皇の御製が百人一首の15番歌となっていますが、その歌はその後の宇多天皇から醍醐天皇の時代を予感させる歌となっており、だからこそ後の藤原定家が選出した歌だと思われます。
 
君がため
春の野に出でて
若菜摘む 
わが衣手に
雪は降りつつ
 
「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」から簡単に説明します。
 
この歌は光考天皇が時康親王の時代に詠んだ歌ですが、百人一首では天皇の歌としてあげられています。天皇が詠む歌で、君といえば天皇以上の人を指します。「き」と「み」は男と女、男女であるとともに世の中全ての人々表します。つまり君民一体の我が国で天皇以上の人達といえば、民です。そして、「春の野に出でて若菜つむ」、とは、若い(才能ある)人材を登用することを指しています。しかし、民のために若い人材を積極的に登用すれば、そこに必ず既存の権力からの反発が生まれます。そうすると、そこでは才能がつぶされたりしてしまうようなことも起きてしまいます。しかし、民のためには若菜を摘み続けなくてはいけない。だから下の句では、その悲しみを「わが衣手に雪は降りつつ」で表しているのです。
天皇が民を思う心を大御心(おおみこころ)といいますが、これは大御心の歌です。その大御心を知ると、こういう志を継いだ次の宇多天皇が、菅原道真を起用したわけだと理解することができます。そして宇多天皇が譲位された醍醐天皇の時に、宇多上皇の推挙により菅原道真公は右大臣となります。
 
しかし九〇一年、道真公が醍醐天皇を廃し天皇の弟の斉世(ときよ)親王をたてようとしたとして、醍醐天皇は道真公を太宰府へ左遷し道真公の子息も解任されてしまったのです(昌泰の変)。
これは藤原時平の中傷によるものでしたが、とりなそうとした宇多法皇は取り次がれず、これを機に醍醐天皇は独立して親政を行うようになり藤原家の権力が増したのです。
 
 
なぜこんな事件が起きたのかといえば、色んなことが絡みあっていたのでしょうが、醍醐天皇が即位される時、宇多天皇が全てのことを菅原道真公と二人で決めたこと。そして、道真公が右大臣になったこと。また、道真公が遣唐使を中止にしたことで貿易でのうまみがなくなる貴族からの反発も相当強かったといいますから、まさしく光考天皇の歌の通りとなったのです。
 
 
菅原道真公が左遷先で没後、都では多くの異変や親王が相次いで亡くなるなどの不幸もあり、道真公の祟りが囁かれるようになりました。醍醐天皇が病に倒れ、崩御された後も道真公の祟りと言われたのです。ただし、道真公が薨去されたのは九〇三年で、天皇の崩御はそれから二七年後ですから、当時としては長い在位期間を努めたので安定した時代で「延喜の治」ともいわれています。しかし、人々の中には菅原道真公を左遷し、そのために道真公が左遷先で亡くなったという印象が強く、後に醍醐天皇は地獄に落ちたとまで言われるようになりました。それほど菅原道真公の怨霊が起こしたと言われれる様々な出来事が人々に与えた影響が大きかったといえるのだと思います。
 
しかし、なによりも多くの人が私心なく我が国のために政治を行った菅原道真公を尊敬していたからこそ、多くの人がそれを惜しみ、また道真公を信頼していた証だったのではないかと思います。
 
 
それが表れているのが、道真公の百人一首の歌です。
 
このたびは
幣(ぬさ)も取りあへず
手向山(たむけやま)
紅葉(もみじ)の錦(にしき)
神のまにまに
 
この百人一首の解説を聞くと、道真公がなぜ神となったかが誰でも納得できるかと思いますが、菅原道真公は、私心のためではなく公(神)のために働いているということを語っている歌なのです。

 
 
 
ここ一か月は特に、日本の政治を残念に思う人が急増しているかと思います。そこには公ではなく私心しか見えないからです。日本の危機的な状況の中で、左遷(政治的駆け引き)など恐れず行動する政治家はいないのでしょうか?・・・
 

久野潤さんのお話を聴くと、実は菅原道真公は、元々は日本的強さをあらわす神様として知られていたといいます。それがなぜ学問の神様(だけが有名に)と変わっていったのか?そこには、日本の強さを削ごうという狙いがありました。それが現在の政治に影響を与えているともいえます。なぜ日本の政治家が日本のために動かないのか?いつも原因はここに戻ってしまいます。
 
 
 
 
菅原道真k公の一生と功績がわかりやすくまとめられた動画

 
最近復刻版として話題の、初等科国史では、挿絵や地図なども含まれますが、菅原道真公に5ページを割いています。それほど道真公の教えは重要だったということです。そしてここが重要ですが、この国史には怨霊としての菅原道真公は記載されていません。また紫宸殿に雷が落ち、その後、醍醐天皇が崩御されたことも書かれていません。それは、子供に教える必要がないからです。ただ、天皇が道真公への仕打ちを後悔して地位を復活し、また人々が道真公を敬って天神様と崇められたことが書かれているのみです。教育というものがどういうことかを物語っているのがこの復刻版の初等科国史です。現在、小学生の社会科の教科書にさえも、日本人が酷いことをしたなどということが書かれていますが、素直な心にそういうことは例え本当だとしても必要ありません。ましてや、捏造の歴史など問題外です。
 
 
 
岡崎天満宮の御復興と奇跡・・・昨年の道真公のブログへのコメントで教えていただいたお話
菅原道真公の次の言葉を思い出して祈ったらどうなったか?言葉の力を考えさせられます。
松は我が姿なり、
我の至り留まる所
必ず松を植ゑむ
 
岡崎天満宮は梅の花の開花時期に梅まつりが行われ3月25日に大祭が行われます
 
 
 
東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花
あるじなしとて春な忘れそ
 
これは梅を愛した菅原道真公の有名な和歌ですが、新暦の2月25日はちょうどその梅の時期にあたります。各地の天神様や天満宮では梅祭りが行われているこの新暦での日付を命日である祭日としているのは、必然かもしれません。ちなみに旧暦での2月25日は、今年は3月19日となりますから、南の方の天神様であれば桜の頃となります。

 

 

 

 

 

 

 

與喜天満神社・・・菅公祭は2月第3日曜に行われるので終了しています。

湯島天神・・・梅まつりは2月8日~3月8日

亀戸天神社・・・菜種御供が2月25日に、旧暦2月25日に神忌祭が行われる
          2月9日~3月10まで梅まつり中
谷保天満宮・・・梅まつりは2月29日、3月1日
 
菅原道真が一休みした安居神社・・・真田幸村終焉の地でもあります
 
 
今年は多くの行事・イベントが中止や縮小となっています。湯島天神も渡御が中止となっていました。残念ですがいたしかたありません。
だからこそ、菅原道真公の公の心を改めて考えたい一日です。
 

最後にもう一度この素晴らしい歌を  
このたびは 
幣(ぬさ)も取りあへず
手向山(たむけやま)
紅葉(もみじ)の錦(にしき) 
神のまにまに