第七四代鳥羽天皇は、平安時代後期の天皇です。

安楽寿院に伝わるという鳥羽法皇像


御父は堀河天皇、御母は藤原苡子。また祖父は、父の堀河天皇時代から次の崇徳天皇まで三代の長い院政を敷かれた白河天皇です。崇徳天皇は第一皇子、後白河天皇は第四皇子、近衛天皇は第九皇子です。

康和五年(1103年)生。


御名は宗仁。

嘉承二年(1107年)~保安四年(1123年)。

鳥羽天皇の時代には源氏物語絵巻が作成され、現存する絵巻の最古のものとなっています。

源義親の乱の追討や当時多かった武装した僧兵の乱暴狼藉を鎮圧など、源氏や平氏の武士の台頭の契機となる事件が多い時代でもありました。

鳥羽天皇の崩御直後には保元の乱が起きていますが、それは長い間の親子の確執に端を発しているといいます。

院政は、天皇の父方の祖父が政治を動かす仕組みであり、皇室の家長たる最上位の上皇を本院もしくは治天の君と呼びます。鳥羽天皇の祖父白河院は、曾孫の崇徳天皇までの三代に渡って治天の君として君臨していました。

鳥羽天皇は父の堀河天皇が崩御されると五歳で即位し、政務は白河法皇が執りました。そして20歳で長子顕仁親王(崇徳天皇)への譲位を強制されます。しかし、出生の頃より鳥羽天皇自身が「叔父子」と呼んでいた顕仁親王は、白河院の子と公然と囁かれていたともいいます。

皇后の璋子(待賢門院)は、幼い頃より白河院に可愛がられ、院の意向により鳥羽天皇へ嫁いでいましたが、その後も院の御所へ出入などの同殿が続いていていたと伝わるからです。

その為、白河院崩御後、鳥羽上皇が寵愛していた美福門院の子体仁(なりひと)親王が二歳になると、崇徳天皇に譲位を迫ります。その際、体仁親王(近衛天皇)は崇徳天皇の養子になっているにもかかわらず、譲位の宣命には位を「皇太子」ではなく「皇太弟」に譲ると明記しました。つまり天皇の父となることによりできる院政が、崇徳上皇はできなくなったのです。このことは後に遺恨として残ります。

崇徳天皇が上皇になられると、康治元年(1142年)戒壇院にて受戒され法王となられました。

その後近衛天皇が十七歳の若さで崩御されると、嫡流である崇徳上皇の第一皇子の重仁親王ではなく、守仁親王が選ばれ、その中継ぎとして守仁親王の父である雅仁親王が後白河天皇となりました。崇徳上皇の同母弟です。その翌年鳥羽法皇崩御。

平安期最大の怨霊になった崇徳天皇の不幸は鳥羽院の時代に蓄積されていったのですが、トップの対立は下々の対立も呼び、摂関家の対立や、源氏・平氏の対立にも波及していき崩御後に噴出することになります。

なお、崇徳天皇が白河天皇落胤説は、実は近衛天皇践祚のタイミングで盛んに言い立てられるようになったともいい、この直後には美福門院や近衛天皇を呪詛したとして待賢門院が落飾をよぎなくされましたが、いずれも美福門院の仕業といわれています。この3年後に、待賢門院が危篤の際には鳥羽法皇が駆けつけて看取り磬(仏具)を打ちながら泣き叫んだと伝わります。鳥羽院と待賢門院の間には、五男二女の皇子女が誕生されており仲睦まじかったことが伺えるのです。待賢門院は鳥羽天皇とその父堀河天皇二代の乳母であった藤原光子の子であり、乳母兄妹でもありましたから、若い美福門院に寵愛が移っても情愛は変わらずあったのでしょう。なお、白河法皇にとり崇徳院は曾孫にあたり、皇室が曾孫をみるのは開闢以来初めてのこととして白河法皇が大いに喜んだともいわれており、こうしたことから落胤説も生まれたのかもしれません。だからこそ異常にかわいがり、またそれに鳥羽上皇が反発したことでの「叔父子」説ということです。もしこれが本当であればそのような相手と7人もの子供を成すでしょうか?また、崇徳天皇が朝覲行幸に訪れた際には、自ら名人といわれる笛の演奏をして歓迎したことも伝わっています(通例として子である天皇が院である父や母に楽器を演奏する場)。父方での養育がないため、親子や兄弟間での齟齬が生じやすい時代でしたが、それでも情愛が伝わってくる逸話です。

 

さらに最近の研究では、待賢門院が白河院のところに通ったのは、鳥羽天皇の後見役であったものの薬子の変以来の太上天皇の内裏立入を禁じた不文律によって直接天皇を補佐することが出来ない白河法皇が、天皇との間を取り持つ者としていたとする説があります。そうすることによって、白河法皇と鳥羽天皇のパイプ役を担っていた藤原忠実の力、藤原家の力を削ぐ狙いが白河法皇にはあったのかもしれません。しかし、それが待賢門院へのいらぬ悪評を作る隙を与えてしまったともいえます。

いずれにしましても、そのような噂に乗じて待賢門院を陥れ落胤説を言い立てていた美福門院にとって、近衛天皇が若くして崩御された後、崇徳院の皇子が践祚し崇徳院が院政を行う事に恐怖して策謀したとしても不思議はありません。平安最大の怨霊を生じさせ、仲の良かったともいわれる崇徳天皇と後白河天皇を永遠に引き裂いたのは美福門院であり、それを許してしまったのも鳥羽法皇の朝廷といえるかもしれません。そしてだからこそ、美福門院はそうしたことの源として、妖狐が化けた玉藻の前のモデルとされているのでしょう。

 

なお院政が敷かれ、鳥羽天皇は白河法王の強要で崇徳天皇に譲位され、白河法王崩御後は今度は鳥羽上皇が崇徳天皇に近衛天皇への譲位を強要されたことは、現在の皇室典範が天皇が強要により譲位することのないような形になった要因とも言われています。つまり、もし皇室典範にて譲位に関する項目が出来た場合、また何らかの強要で天皇の意思に反して譲位されることになるような危険性が起きることを排除するためのものということです。

保元元年六月鳥羽法皇が危篤状態になられた晩、崇徳上皇が御幸されるが会わせてもらえず憤慨し還御されます。これを指示していたのは信西(藤原南家の藤原通憲)でしたが、後白河天皇の意志といわれていますが、それは鳥羽法皇、崇徳上皇等が、天皇の器にあらずとも言ったとされる、若き日の後白河天皇の浅はかさ、あるいは即位直後であることと皇統に縁がなかったことにより帝王学を知らなかったことによるのかもしれません。晩年、源頼朝に大天狗と言われた片りんはこの頃はまだなかったのでしょう。

保元元(1156年)七月二日、鳥羽の安楽寿院にて崩御。鳥羽院と追号されます。

鳥羽法皇が崩御されると、朝廷は即位されたばかりの後白河天皇方と、先帝の崇徳上皇方に分裂し、これが保元の乱に発展します。しかし、これも鳥羽法皇の時代にまかれたものが崩御直後に一気に芽吹いたとしかみえないのです。

七月十一日保元の乱勃発。

後白河天皇方の平清盛が先制攻撃にて勝利し、崇徳上皇は讃岐に流されました。天皇や上皇が流刑となるのは淳仁天皇以来およそ400年ぶりのことでした。その後、讃岐院と呼ばれた上皇が3年がかりで書いた写経を八幡山か高野山、許されれば安楽寿院に納めてほしいと同母弟の覚性法親王に送ったところ後白河天皇が「罪人の手跡を京に入れてはならぬ」と許さず送り返されました。その写経を目にした崇徳上皇は天皇を呪って経の最後に「われ日本国の大魔王なり、皇をとって民となし、民を皇となさん」と血書し海に沈め、以来髪を剃らず爪を切らず、やせ衰えて悲憤の内に崩御されたと伝わります。そして以来都では貴人の死去が相次ぎ、讃岐院の怨霊の祟りが恐れられるようになるのです(「崇徳」は慰霊され贈られた追号)。平安時代最大の怨霊といわれ20世紀になっても昭和天皇が東京五輪の際にも800年祭で慰霊し東京五輪の成功をお願いしたとされるほど強い怨霊は、妖狐の伝承が生まれてしまったモデルとなる朝廷だからこそ出現してしまったといえるかと思います。

 


山陵は安楽壽院陵。京都市伏見区竹田浄菩提院町にあります。崇徳上皇は崩御前の父帝に会わせてもらえず、讃岐に流されたためお参りすることもできない陵のあるお寺への写経奉納をも拒否された崇徳院の怒りは、日本人であれば誰でも理解できるのではないかと思います。しかも拒否したのは同母弟であり、自身が面倒もみてきた仲の良かった弟なのです。その悲しみも深かったのではないかと思うのです。そのような環境を作ってしまったのが朝廷であり、鳥羽法皇の人間関係でもあったのです。鳥羽法皇にはそのような意図はなかったのかもしれませんが、結果的にそうなってしまいました。

 

安楽寿院のHPには鳥羽離宮跡や鳥羽天皇陵についての案内があります。それによれば、元北面の武士で鳥羽天皇に仕えていた西行は、鳥羽法皇の葬送に参列し、人々が去った後も御陵に残って夜明けまで一人弔いを続けたそうです。なお、西行は後に、崇徳院が崩御された後の讃岐も訪れたことが知られています。

 

↓文字化けしていますが安楽寿院のHPです

 

ところで、御歴代天皇の御影の中で、一番容姿が麗しいのは鳥羽天皇ではないかと私は考えています。(私が知るきちんとした肖像画中ということであって、伝承で麗しいとされる天皇とはまた別です。安楽寿院に伝わる冒頭の御影のことです。)


参照:「宮中祭祀」展転社
※祭日はこの本の日付によります。

「旧皇族が語る天皇の歴史」PHP新書
「怨霊になった天皇」小学館
「天皇のすべて」Gakken
「近代天皇で読む正史」

 

竹田恒泰氏の『怨霊になった天皇』は日本の怨霊文化の始まりが理解しやすくなる1冊です。なお表紙の題字は竹田氏が書かれたものです。これは、左利きの氏でもきれいに書ける字として選んだ書体だそうで、サインされるときもこの書体でされています。

最近文庫で出ていた永井路子著書の『悪霊列伝』、すっかり忘れていましたがこれ昔読んでいたなあ、と。小中高時代、永井路子さんの歴史エッセイ読み漁っていたのです。それで崇徳天皇のところを読んだら、待賢門院はやはり白河天皇と・・・と書かれており、誕生の際の開闢以来のとの歓びようは朝廷ならではのものとあって、そうなのか・・・と。所詮私は、こうした実際に調べている方々の書かれたものから知るしかないわけで、第一資料に当たられている方々は強い、と思うのでした。古文・漢文が読めないと永遠に、第一資料は読めません。せいぜい、好みの歴史専門家がまとめたものを読むしかなく、こうして引用しているわけです。本当の歴史を見る目を養うためにも、古文・漢文も含めた国語教育をしっかり行うことが歴史の断絶を生まないための方法だと考えるようになっています。なんといっても、口語体で文章を書くようになってからの日本の歴史は、その前と比較したら浅いわけですから。『悪霊列伝』、当時に比べて歴史的素養が多少は増えた今のほうが、面白いですが、全く知らない人ばかりだった昔も大好きだったんですよね、永井路子氏の歴史エッセイ本。(永井路子氏の歴史小説は一つも読んでいないのですけど)

 

 

 

 

 

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