本日は旧暦5月28日ですが、元永二年(1119年)五月二十八日は、鳥羽天皇の第一皇子、顕仁(あきひと)親王が誕生された日でもあります。3年前は生誕900年の年でした。

※単純に旧暦にあてはめています。


後に悲劇の天皇とも呼ばれることになる顕仁親王の母である藤原璋子(待賢門院)は白河院(法王)ご寵愛の養女として白河院の孫である鳥羽天皇の中宮に入られましたが、顕仁親王は出生の頃より鳥羽天皇自身が「叔父子」と呼んでおり、つまり白河院の子と公然と囁かれていたと伝わります。ただし、この噂は後に鳥羽上皇が寵愛された藤原得子(美福門院)の勢力が増してきた時に囁かれるようになったともいいます。なんといっても顕仁親王の誕生に白河院は皇室初の玄孫に大喜びだったとも伝わっているからです。そうしたことを知ると、鳥羽上皇が「叔父子」と呼んだというのは、白河院のたいそうな喜びぶりと我が子への寵愛を鳥羽上皇が皮肉ったのかともとれるのではないかと思います。

鳥羽上皇の中宮璋子(待賢門院)は、幼い頃より白河院に可愛がられ、院の意向により鳥羽天皇へ嫁いでいましたが、その後も院の御所へ出入などの同殿が続いていたといいます。孫である自分と比較して寵愛される妻や玄孫として可愛がられる長子への複雑な気持ちがあったのかもしれません。
 
なお、最近の研究では、待賢門院が白河院のところに通ったのは、鳥羽天皇の後見役であったものの薬子の変以来の太上天皇の内裏立入を禁じた不文律によって直接天皇を補佐することが出来ない白河法皇が、天皇との間を取り持つ者としていたとする説があります。そうすることによって、白河法皇と鳥羽天皇のパイプ役を担っていた藤原忠実の力、藤原家の力を削ぐ狙いが白河法皇にはあったのかもしれません。しかし、それが待賢門院へのいらぬ恨みを買ってしまったともいえるのでしょうか。

 

顕仁親王が5歳になると、鳥羽天皇は白河院に譲位させられ顕仁親王が即位しました(崇徳天皇)。

 

白河院が崩御すると次に院政を敷かれた鳥羽上皇は待賢門院を遠ざけられ、藤原得子(美福門院)を寵愛し、皇子体仁(なりひと)親王が生まれました。さらに、生後三カ月で立太子させ2年後には崇徳天皇に譲位を迫り崇徳天皇は在位十九年で譲位させられ体仁親王が即位しました(近衛天皇)。しかもこの時、体仁親王は崇徳天皇の中宮藤原聖子を准母として形としては崇徳天皇の皇太子として譲位する形を勧められたのにもかかわらず、譲位の宣命には位を「皇太子」ではなく「皇太弟」に譲ると明記されていました。つまり天皇の父となることによりできる将来の院政が崇徳上皇は不可能となることがこの時運命づけられたのです。これは崇徳上皇に大きな遺恨となりました。


さらに近衛天皇即位後、美福門院が標的と考えられる呪詛事件が起き、待賢門院が疑われ、待賢門院は自ら建立した法金剛院において落飾し*3年後崩御しています。母である待賢門院が遠ざけられるだけならまだしも、明らかに陰謀と思われる呪詛を疑われ落飾することになったことも崇徳上皇のしこりとなったことでしょう。しかも、そこに美福門院が流したといわれる崇徳上皇が鳥羽院の子ではないという噂があります。
*鳥羽上皇も同じ年に受戒し、法皇となられています。

 

そもそもまだ満年齢で三歳にもならない体仁親王の即位を急いだのは、崇徳上皇に第一皇子が誕生したため、体仁親王の立場が不安定になったためでした。つまり、この譲位により鳥羽上皇は、崇徳天皇系が続くことを阻止しようとしたことになりますがそこには、美福門院派の意向が働いていたともいえます。

 

待賢門院は美福門院呪詛の疑いをかけられたその三年後に疱瘡にかかった後体調が戻られず崩じられました。待賢門院は鳥羽法皇との間に崇徳天皇の他に、後の後白河天皇となる雅仁親王を含む五男二女の7人の皇子女に恵まれ、熊野詣もそろって参詣しており、鳥羽院との仲は良かったと伝わります。美福門院の登場と出家により疎遠になりましたが、その臨終の際には鳥羽法皇が臨御(駆けつけ)し看取り、涕泣(仏具の磬(けい)を打ちながら大声で泣き叫んだ)したと伝わります。宮中という隔絶された場所で幼い頃より一緒に育ち、七人の皇子女がいたわけですから、鳥羽上皇が待賢門院に寵姫である美福門院とは違った特別の愛情があったことは確かだと思います。讒言され遠ざけられても真実は隠せないということではないでしょうか。

 

その後、近衛天皇が満年齢十六歳、御在位十四年で崩御された時、皇子女がいませんでしたので、崇徳上皇は嫡流である第一皇子の重仁親王が即位されることを期待しましたが、美福門院らの思惑で同母の弟である雅仁親王の皇子の守仁親王(美福門院の養子となっていた)が選ばれました。ただしまだ幼く父を飛び越えての即位も問題があるとして、その中継ぎとして雅仁親王が即位することとなりました(後白河天皇)。なんといっても美福門院側は、崇徳上皇は鳥羽法皇の子ではない、という噂を流したのに、崇徳上皇の皇子が天皇になっては自分たちの身が危うくなると考えるのは自然の流れでしょう。

 

崇徳上皇の同母弟の雅仁親王は皇位に関係ない位置に生まれたとして皇統は期待されずに育った親王で、周囲に注目されず自由なふるまいをしてきており、今様に夢中になりながら育ちました。そのためか鳥羽上皇や崇徳上皇にも、皇位に相応しくないと言われています。しかし崇徳天皇との仲は良かったと伝わります。

 

もしかしたら、そのような環境で育ってしまったため、後白河天皇の判断は誤ってしまったのかもしれません。

 

後白河天皇の即位直後保元元年(1156年)6月、鳥羽法皇が危篤状態になられた晩、崇徳上皇が御幸されましたが会わせてもらえず憤慨し還御されました。 これを指示していたのは信西(藤原南家の藤原通憲)でしたが、後白河天皇の意志ともいわれています。

鳥羽法皇は崩御され、その直後に保元の変が勃発しました。それは、だんだんと蓄積した親子のしこりや兄弟の確執に端を発しているかといえます。それでも、崇徳天皇が即位の後、朝覲行幸に訪れた際には、笛の名人であった鳥羽上皇は自ら笛を吹いて歓待したとも伝わり、親子の愛情が外に出る形でも伝わってゐるのです。
 
鳥羽法皇は禍根を残したまま崩御し、崩御後に兄弟間の争いを起こさせてしまいました。父親が子供に悪影響を与えてしまった点では、後嵯峨天皇に次ぐかもしれません。
 
ただしかし、天皇や上皇、法皇として別れて暮らし、様々な思惑と権力を望む人達に囲まれて過ごす中で、親子や兄弟の絆を保つのは難しいともいえます。ここに、帝の器ではないと言われていた後白河院をかつぐ信西らがつけ入り、朝廷は即位されたばかりの後白河天皇方と、先帝の崇徳上皇方に分裂しますが、皇室内の様々な事に、貴族間の争い、また勢力を拡大しつつある武士間の争いが絡み、鳥羽法皇の崩御直後起きたのが保元の乱です。


この時平清盛と源義朝率いる後白河天皇方が、崇徳上皇方へ夜襲をかけ、崇徳上皇方は敗れ、また平清盛はこれを機に勢力をより拡大していくこととなりました。

 

そして敗れた崇徳上皇方では薬子の変以来346年ぶりの死刑が行われ、崇徳上皇も讃岐に配流されることになるのですがこれも淳仁天皇の淡路配流以来400年ぶりのことでした。

 

崇徳上皇は、後白河天皇が譲位された二条天皇(守仁親王)の御世に二度と京の地を踏まれないまま崩御されました。最後まで罪人として扱われ、葬礼も国司だけで行われ、朝廷からなんの措置もなかったことから「怨霊となった天皇」としての存在が大きくなっていきます。


この時代は平安時代末期で、鎌倉幕府が開かれる時代に向かっており、動乱が続きまた貴族社会も大きな変革の時代となっていました。後白河院の周りでは次々に人々が亡くなり、そうしたことが、崇徳天皇の怨霊の力の現れとされたのです。


崇徳院と後白河天皇は同母の兄弟であり、後白河天皇が皇位に関係ないと周囲に思われていた時代には崇徳院が後白河天皇の面倒も見ていたとも伝わります。ところが、上皇と天皇という立場になると、普通にただの兄弟として接することができなくなってしまったこともこうした悲劇を生んだのではないかと思います。


崇徳天皇は讃岐に流されてからは讃岐院と呼ばれ、崩御後も讃岐院と呼ばれていましたが、その怨霊に恐れをなした後白河院は、保元の宣命を破棄し、讃岐院を崇徳院と改めさせました。この時の「崇」は平安初期に畏れられた怨霊、崇道天皇にならったもので慰霊の為の最上級の字として認識されていた「崇」に「徳」を組み合わせ最大級の名前を贈られ慰霊をしたのです。また、崇徳院廟(のちの粟田宮)が設置され、御陵のある白峰寺は保護され慰霊を繰り返したのです。

 

同母の弟であったことの恨みは大きかったでしょうし、同母の兄であったことからより良心の疼きも大きかったのではないかとも思われます。しかも平安初期の御霊信仰始まりの時期の崇道天皇も、桓武天皇同母の弟でありました。


明治時代になった時、明治天皇は即位に当たって勅使を讃岐に遣わして崇徳天皇の御霊を京都に帰還させ

白峰神宮を創建致しました。これは父君の孝明天皇が幕末の混乱を崇徳天皇に鎮めてほしいと願っていたことによります。そして先の東京五輪が開催された時はちょうど800年祭の年でありましたので、昭和天皇は崇徳天皇を慰霊しまた五輪の成功を願われたといいます。崇徳天皇の祭日は9月21日ですから、まさに開催直前のことです。(開会式は10月10日)

 

この白峯神宮は、元々その地にあった飛鳥井家が祀っていた「まり」がクローズアップされ、ボール競技の神様として現在スポーツ関係者の参拝者が増えています。お参りするとそのあまりにも明るい雰囲気に驚かされる神社です。京に帰還され怨霊は鎮まり人々を応援する神様に鎮まったのだと思います。


また、崇徳天皇が祀られている安井金毘羅宮は現在悪縁を切るととても人気がある神社です。

 

そして香川県にあり崇徳天皇がお参りし、また崩御後に合祀された金刀比羅宮は、全国の金毘羅様の総本社として人気が絶大です。

 

平安の大怨霊、いえ日本史上最大の怨霊ともいわれた崇徳天皇は、今では人気のある神社の神様となられ私達を見守られているのです。

 

後白河天皇の孫である後鳥羽上皇と親交のあった藤原定家が編纂した百人一首に選ばれた御製を知ると、この時代への理解がさらに深まるかと思います。
 
百人一首の七十七番歌は崇徳院です。


瀬をはやみ
岩にせかるる
滝川の
われても末に
逢はむとぞ思ふ
 
ねずさんの百人一首から、簡単に解説しますが、この歌は崇徳院が何度も推敲し、一番激しく表現されたものが百人一首に選ばれているといいます。

何か大きな対立、戦に近いほど意見が対立する相手と、今は互いに別の道を歩むことになるけれども、いつか再び出会い、今度は同じ道を歩んで行きたい。 
この別の道を歩んでしまうのは、崇徳天皇とその同母弟、後白河天皇です。崇徳天皇は後白河天皇の面倒をよく見ていた兄でした。ところがその二人が貴族同士、武士同士の政争に巻き込まれ縁遠くなってしまい、後には京と讃岐にまでも離れてしまうのです。700年後、明治天皇は即位にあたって、讃岐に勅使を遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建しました。御霊だけでも京に帰還していただいたのです。
 
なお、崇徳天皇の誕生日は西暦では7月7日です。明治の始めに暦が改暦されるまで、崇徳天皇の誕生日と七夕が結びつくことはなかったでしょうが、百人一首の崇徳院の歌は七夕の歌のようにも思えてきます。そして昨年は、その西暦での誕生日が、旧暦での誕生日と一致していた年でした。そう考えると本来の年ではなく、昨年五輪が開催されることになったのは必然のようにも思えてきました。

怨霊として恐れられている時、それは人々の敵でした。しかし、恐れ敬われた怨霊は神様となり、人々を応援し励ましてくれる味方と変わっていきました。他にも御霊神社は沢山ありますが、御霊神社を怨霊の神社と思ってお参りしている人はいないと思います。神様の神社としてお参りしているのです。そして神様は私達の味方となります。

 

そして世界が混沌とした中で五輪が開催された年に、多くの人が好きな行事の日である七夕の日が旧暦での誕生日と重なった。何か不思議な縁があるように思えたのです。

 

怨霊を生みだすのも神様を生みだすのも人々の心です。


怨霊信仰は、そういう怨霊を生みださないための教えとして、人と人との結びつきや接し方などを教えるためにあるのではないかと考えています。


崇徳天皇の話は、知れば知るほどに色々と考えさせられることばかりです。御歴代の天皇の中でも特異な御存在である崇徳天皇について知ることは、怨霊信仰を含め日本人としての思考を深められることの一つでもあると考えています。


こうした御霊信仰の始まりとなった天皇について書かれた本に、竹田恒泰氏ご著書の「怨霊になった天皇」があります。天皇関連の本で竹田恒泰氏に敵う著者は今現在いないのではないかと思います。怨霊信仰は、日本社会を知る上で必須の歴史だと思います。なお、本書では崇徳天皇は白河天皇の皇子説が信じられると解説付きで記載されています。

 

崇徳院の御製は恋の歌という解説が多いですが、これは兄弟の歌と解く「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」

 

最後に、私が一昨年驚いた話を書きます。一昨年、虎ノ門の金刀比羅宮へお参りしました。ここは一度しかお参りしたことがなかったのですが、久しぶりにお参りして時間があったので境内のベンチでのんびりしてきました。暑い日でしたが、境内はとても気持ちよく居心地が良くて凄く落ち着けました。ここはビルの1階が神社となっておりますが、ビル街の中とは思えない静けさがあります。帰り、境内を出ると数歩で暑くなり、やはり境内は涼しかったんだとあらためて認識させられたほどホッとする空間です。そして境内も一通り回りましたが、案内に書かれている例祭日をみてハッとしました。例祭日が10月10日だったのです。

 

昭和39年東京五輪の開会式は10月10日でした。この日は晴れの特異日として選ばれた説がありますが、この日が金比羅宮の例祭日でもあったなんて、こんな偶然あるでしょうか?しかも直前に昭和天皇が800年祭のお祭りで東京五輪の成功のため、特別に慰霊したという崇徳天皇が祀られている神社です。当時どのようにこの日が選ばれたのか、物凄く興味があります。

 

なにしろ、スポーツのお祭りと金に縁のある金比羅様のお祭りが同じ日で日本はもちろん世界中のお祭りとなったのです。日本は高度成長期でこの後も経済成長は著しい時代となっていきました。

 

一方で、多くの人々が真夏の開催を危惧した令和の東京五輪。私は最初日本で開催されると聞いたときは、また10月10日が開会式になると思い込んでいて、これで体育の日が元に戻ると考えましたので、酷暑である真夏に行われると聞いた時凄く驚いたものです。しかし、アメリカのテレビプログラムが優先で時間帯も日程も決まることは有名でしたから、秋に行われるはずがなかったのでした。しかし、それでなくても最近の厳しくなっている真夏の猛暑の中、激しいスポーツを行えば選手はもちろん観客の健康にも害を与えるのではないかという危惧がありマラソン開催地でもずいぶんもめました。五輪開催直前の東京都議選挙でまで、五輪中止を叫ぶような立候補者が何人もいるような状態でした。世界各地でサッカーや、テニス、ツールドフランスのような国際大会が開催されている中、日本が開催しなかったらそれこそ異常といえますから、こうしたことを叫ぶ人たちが異様に思えたものです。

 

一昨年、この例祭日を知った時から、もしかしたらせっかくの金比羅さんのお祭り日であった本来の体育の日を開催日に選ばなかった時点で、五輪と縁が切れてしまったのかもしれない、と考えてきました。だから、五輪中止を叫ぶ人が多いのか?とも考えたものです。

 

しかし、新暦とはいえ崇徳天皇が誕生された日である七月七日が生誕時と同じく旧暦と重なった年となっていることを知って、なにか希望が湧いてきたのです。ほんの些細なことで気持ちは変わるから不思議です。

 

そしてその時気づいたのです。新しく作られた国立競技場は、真夏開催でありながらドームなどのように閉じられていないことから、暑さを懸念してずいぶん批判されていました。しかし、その密閉した空間にならない自然の空気循環ができる建物となっていたことが、今回の状況に合わせて造られたかのように思えてきたのです。日本では、なんでこんなことが?と思うことが実はよい結果になるということが歴史を見ると何度も起きていますが、これもその例に当たったということです。そして、結局は色んな事がありましたが、世界からは好意的なまま完了することができました。やはり、護られたのだと私は考えています。

 

 

 

 

 

 

一人で動いてはダメだ。一人で動いたら、その人が消されて終わり。そうではなく、大勢の人で動かなくては世の中を変えていくことはできない。この夏、日本を変えるきっかけが生まれるかどうかは、私たち一人一人にかかっている。

 

 

 

 

 

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