歴史をきちんと学びだす中学生の時、最初の印象的な事件と言えば大化の改新のきっかけとなる事件で、この印象が強烈だったのは今でも覚えています。

 

舒明天皇崩御の頃あたりから、日本の支配下にあった半島では大乱が起きており、後にこの大乱に日本も巻き込まれるのですが、皇極天皇即位の時期、前天皇の崩御や新天皇の即位に伴い、百済・高句麗・新羅の使者が事あるごとに何度も来日、来朝してました。そんな中、皇極天皇四年(645年)、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日しました。

 

この使者を迎える儀式は朝廷で天皇臨席の元に行われ、大臣も必ず出席しますが、この時を好機として起きたのが天皇の前で中大兄皇子と中臣鎌足が大臣の蘇我入鹿を誅殺した事件、乙巳の変です。六月十二日のことでした。本日は旧暦の6月12日ですから1377年前の本日ということになります。

※単純に旧暦にあてはめています。

 

この時、皇極天皇は驚かれ「何事か?」と問われ、中大兄皇子は平伏して「入鹿は、皇族を滅ぼして皇位を奪おうとしました」と答えると、天皇は無言のまま奥へ退かれ二度と戻りませんでした。

 

この翌日の十三日、入鹿の父、蘇我蝦夷は屋敷に火を放ち、蘇我氏は滅びました。この時、聖徳太子と馬子が編纂した「天皇記」、「国記」が焼けましたが、「国記」は火中から拾い出し中大兄皇子の下に届けられたと伝わります。

 

そして翌十四日、皇極天皇は史上初の譲位をされ弟の軽皇子が即位(孝徳天皇)しました。また、この時皇太子には中大兄皇子がなりました。この時初めて元号が制定されたのが「大化」であり、この後の改革は「大化の改新」といわれています。

 

乙巳の変は、史上初の譲位と初元号の制定のきっかけとなったのでした。

 

この乙巳の変が起きるまでには崇峻天皇弑逆事件に始まる蘇我氏の専横がありました。崇峻天皇は、臣下に暗殺されたと記された唯一の天皇です。この後、姪の推古天皇が即位しますが、馬子は何の罪にも問われず、推古天皇の権威を背景にして更に権勢を強くしていきます。それでも推古天皇は馬子のわがままを抑えていました。しかし、推古天皇も後の舒明天皇も蘇我氏の権勢が強すぎて、ご自身で後継を決めることができなかったとされます。舒明天皇崩御の後、皇后が即位された(皇極天皇)のも、こうした後継争いがあったためでした。舒明天皇の殯の宮で誄(しのびごと)は中大兄皇子が述べたことから、皇后の第一皇子で後継として有力視されていたといいますが、舒明天皇の第一皇子には蘇我馬子の娘、法堤郎女を母とする古人大兄皇子がいて、いずれもまだ若かったことから、その後継争いを避けるためだったのです。そして皇極二年に起きたのが、舒明天皇と皇位を競い年齢的にも有力な皇位継承者である聖徳太子の王子の山背大兄王を蘇我入鹿が攻め滅ぼした事件です。これは、若い古人大兄皇子の方がくみしやすいことから、山背大兄王が邪魔になったのでした。

 

こうした蘇我氏専横の事件が重なったことが、中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変を引き起こす要因となり、「皇族を滅ぼして」の言葉へ繋がっていきます。そのため蘇我氏の血を引く古人大兄皇子は、これを警戒し、皇極天皇の譲位後に皇位を最初に勧められましたが断り出家しました。しかしその3か月後には謀反を企てているとの密告により中大兄皇子により滅ぼされています。なお、「大兄」が次の天皇の第一候補で、それに中が付く「中大兄」は次候補であるといいます。そう考えると、山背大兄王亡き後の第一候補枠が一人となった古人大兄皇子を退けるためであったともいえますので、そうするとまた違う見方もできるかと思います。私は、日本書紀を始めてきちんと読んだときに、中大兄皇子には人望がなかったのではないかという印象を受けたのですが、これを知った時に、なるほど、と感じたものです。

 

つまり、こうした過激な行動をとったほどの行動力があったためか、天智天皇は同時代での印象が良くなかったようなのです。日本書紀を読みながら、納得したのはこういう印象は時を超えても変わらないものなのだと感じたからでした。そして、だからこそ、日本の歴史で最初に教わる大きな事件が、推古天皇の時代のすぐ後となる、この乙巳の変なのではないか?となるのです。戦後、GHQは歴史教育において尊敬できる天皇や皇族について教えないようにさせています。つまり、自らこうした行動を起こした中大兄皇子=天智天皇はどんどん教えろ、ということだったわけです。そして、いきなり登場させることはできないから、女性天皇である推古天皇から教えるようにさせたのではないか?と、最近では考えている国史上の大事件です。しかも、天智天皇がいたからこそ、その後の壬申の乱も起きたわけですから、絶対にここは詳しく教えたかったのでしょう。

 

一方で、天智天皇がその後の歴史に大きな影響を遺したこと、その存在感の大きさは、間違いのないことでもあります。そうした戦後教育の中で、必要以上に悪い印象が与えられているのも天智天皇かもしれないとも思うのです。

 

そうした印象を覆すのが、『奇跡の国日本がわかる万葉集』です。天智天皇といえば、弟の大海人皇子、後の天武天皇とその妃である額田王をめぐって三角関係であったといわれていますが、それは違うと述べられていて、そのいわれの基となった歌が三首解説されており感動します。

 

ただ、やはり天智天皇には、皇位継承に関し陰謀家的な面が強くあり、それは同母の弟(大海人皇子/天武天)に対してもあって、だからこそ自身の娘を何人も嫁がせていて、その一人が後の持統天皇となります。

 

また『敗戦復興の千年史』では、日本を想い護る気持ちは天智天皇も天武天皇も変わらなかったのだ、と実感します。天智天皇と天武天皇は、同母の兄弟で皇統を争ったわけですが、それは元寇の時代にやはり同母の兄弟でありながら、皇統を争っていた後深草天皇と亀山天皇も同様であることが本書ではわかります。

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中大兄皇子は、皇太子として政務をとり続け、孝徳天皇の朝廷で多くの改革を行いましたが、そこに全国の戸籍や土地台帳の編纂もありました。この時、地名も姓も漢字二文字で表すようにしたことが、全国の姓名や地名がほとんど漢字二文字で分かりやすいのはこの時の功績です。

 

なお奈良の談山神社は、中大兄皇子と中臣鎌足が出会い談合を重ねた場所に社ができたことからこの名前となっています。

 

時の記念日は天智天皇由来の日です。

 

 

 

 

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