第百十八代後桃園天皇は江戸時代の天皇です。

 

御父、桃園天皇の第一皇子、御母は一条富子。

 

御名は英仁(ひでひと)、二宮(にのみや)。

 

宝暦八年(1758年)生。

 

在位、明和七年(1771年)から安永八年(1779年)。

 

桃園天皇が崩御されたのは、英仁親王が五歳の時でした。第二皇子の貞行親王もまだ二歳と幼い上に既に伏見宮家を継いでいらっしゃいました。また桃園天皇治世末期に発生した宝暦事件において摂関家が幕府と癒着し、天皇が幼い頃からお側に仕えていた側近たちを追放していました。

 

そこで英仁親王の即位後に同様のことが起こるのを避けるためもあり、桃園天皇の異母姉の智子内親王が中継ぎとして即位されました(後桜町天皇)。

 

 

御歴代最後の女帝です。その伯母である後桜町天皇から譲位され十三歳で即位しました。

 

即位の年とその翌年は各地を大早魃が襲い江戸では大火、またその後各地で水害もありました。即位三年目の明和九年(1772年)には江戸三大火事の一つ明和の大火災が起きています。原因は放火で、犯人の無宿物は市中引き回しの上火刑に処せられました。(江戸時代火事は死罪と決まっていました。)そのため「明和九年(めいわくねん)」は「迷惑年」というので十一月十六日に「安永」に改元されました。

 

各地では一揆や打ち壊しがある一方で、経済活動が盛んになり賄賂も横行した時代で、宮中も同様でした。幕府にて多数処分されています。後桃園天皇は寛大な処分を求めましたが、老中の田沼意次は三十人以上を解職、そのうちの四人は死罪、五人は遠島となったのです。なおこの時代は徳川吉宗に寵愛され直接教育を受けた孫、家治が十代将軍の頃です。

 

またお伊勢参り(お陰参り)が大流行し、奉公人や子供が無断で参詣ししたため抜け参りとも言われました。

 

安永三年(1774年)、若狭国小浜藩医の杉田玄白がオランダ語医学書「ターヘル・アナトミア」を入手しましたが、たまたま小塚原刑場で死体の腑分けを実現し解剖図の正確さに驚いて和訳、「解体新書」として刊行しました。

 

その2年後の安永五年(1776年)7月4日、アメリカ独立宣言が発布されました。ペリーが来航したのは嘉永六年(1853年)ですから、その時まだ建国後約80年の頃の小国だったのです。


虚弱体質だった後桃園天皇は父帝と同じニ十二歳で崩御し安永八年(1779年)、皇子女がその年に生まれた皇女欣子内親王だけでしたので東山天皇の曾孫の閑院宮家の祐宮が急遽養子となり、次の光格天皇となりました。その間、崩御の発表は後ろにずらされました。この時まだ光格天皇が幼かったため、後桜町上皇が再び後見役となり教育にあたりました。

 

光格天皇は今上陛下に繋がる皇統となります。欣子内親王は光格天皇の中宮となりました。「天皇の国史」には、これは継体天皇の例に習ったものと書かれています。継体天皇は先帝の姉にあたる手白香皇女を皇后とされ、先帝の皇統と繋がっていたからです。

 

光格天皇

 

後桃園天皇は、東山天皇の皇子である中御門天皇系としては最後の天皇となりましたが、閑院宮家は東山天皇の皇子が祖となりますので、傍系となっても東山天皇の系統であることに変わりはありません。これが皇統が続くということです。

 

東山天皇

 

御陵は月輪陵l、京都市東山区今熊野泉山町、泉涌寺内にあります。先日天皇陛下、皇后陛下が孝明天皇陵を参拝されるため泉湧寺へ行幸啓されましたが、月輪陵の後ろに孝明天皇の後月輪東山陵があります。

 

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後桃園天皇は、中継ぎで即位されていた叔母の後桜町天皇から譲位されて即位しましたが、お若いうちに崩御され、傍系から幼い光格天皇が即位されることとなりました。つまり、後桜町天皇の御代前から皇統の危機が意識されていたといえます。だからこそ閑院宮ができました。後桜町天皇の前の女帝は後水尾天皇の意地で誕生した明正天皇で、皇統の危機で誕生したわけではありませんが、それ以前の奈良時代に続いた女帝は皇統の危機や皇統の争いの中で誕生しています。しかしそんな中でも、皇統の正当性は守られてきたことだけは知っておくべきことです。皇統の危機が言われる現在、こうしたことを知らずに語ることだけはあってはならないことです。

 

 

上記動画で、倉山さんが元正天皇は天智系とおっしゃっていますが、天武系の間違いです。母帝は天智系となりますが、元正天皇は天武系となります。元正天皇が天智系であれば、母帝の元明天皇は蘇我系となってしまいます。倉山さんでさえ言い間違えるほどですから、女系天皇という言葉がいかに人を惑わせるものかわかりやすい動画となっています。

 

参照:「宮中祭祀」
「歴代天皇事典」
「天皇のすべて」
「歴代天皇で読む日本の正史」

 

 

 


 

歴史の流れは、通史である「天皇の国史」があるとわかりやすく、田沼意次や伊勢参りに犬まで行ったこと、幕末に向かう国学の流れ、欧米の産業革命や米独立、欧米列強のアジア進出などの流れまでわかります。日本史と世界史を私達は学校教育で習いますが、国史には我が国に関わる事は全て書かれます。つまり世界は繋がっており影響を与え合いますので、日本史と世界史という風に分けて考えません。

     

 

 

 

 

 

 

 

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