本日は旧暦の五月十九日ですが、永禄三年五月十九日(1560年6月12日)といえば、桶狭間の戦いのあった日です。

 

この時、勢力を拡大していた今川氏に真っ向から挑んだのが織田信長であり、勝ち目のない戦と思われていた劣勢での尾張侵攻に対して勝利したことで、戦国時代の勢力図が大きく変わった戦いです。

 

この日は正午過ぎに視界を遮るほどの豪雨があったことが知られていますが、確かに今ぐらいの時期には突然の豪雨がありますし、先週中には2度もありましたから、この時期にあったということがわかりやすい話です。新暦の時期と比較してみても、やはり明治以前の旧暦の時期に起きたことは、やはり旧暦で考えないとわかりずらくなってしまいます。

 

戦はこの雨に乗じての奇襲だったとも、雨が止んでからの進軍だったとも言いますが、いずれにしても今川軍に対して軍勢の少ない織田軍が勝利したわけです。

 

そしてこの戦の直前、朝の8時ごろに信長が行ったのが、熱田神宮にての戦勝祈願です。地理的な距離がわからずに地図を見たらけっこう熱田神宮と桶狭間は離れていて、ただ同じ名古屋市内であることや、馬での移動であればその後の午前中の集結や、正午過ぎの戦闘もうなずけるかと思いました。

 

信長は神仏を恐れぬとか、神になろうとしたとかいろいろ言われますが、最近では実は非常に迷信深かったことが知られてきています。しかも元々は、神職の家系の忌部氏をルーツとしています。だからこそ熱田神宮に祈願をしているわけですし、他にもたくさんの神社での祈願の記録があり、きちんとお礼の寄進も行っています。熱田神宮には信長塀がありますが、これこそが桶狭間の戦勝後の寄進として有名なものです。

 

熱田神宮の信長塀

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こうした神社との関りを知るだけでも、歴史の見方が変わってきます。歴史の古い神社にはその境内を散策すると歴史の痕跡が残っていることも多く、こうしたことを知っていれば信長の功績が貶められようともそんなはずがないことがわかるわけです。実は、信長に悪いイメージもつきだしたのは戦後であるといいます。確かに、戦前の教科書などをみても、信長についてことさら悪くは書かれていないのです。また、天皇になり替わろうとしたなどということを歴史関連書でよく読んだ覚えがあるのですが、例えば「復刻版初等科国史」では、信長は尊皇の想いが篤いと書かれています。つまり、信長についてもずいぶん歴史の書き換えがされていて、それがあらためて正されているのが現在の状況と言えます。織田信長は、国史きっての魅力的な武将で人気がありますから、こうした人物を貶めることは日本と日本人を貶めるために必要と思われたのでしょう。

 

つまり、それだけ歴史は大切であるということがわかるかと思います。大切なものであるからこそ狙われるのです。

 

 

 

この桶狭間の戦い前夜が舞台となるのが漫画が原作の映画「ブレイブ群青戦記」。この時、まだ今川方にいた松平元康、後の徳川家康は織田信長とは敵対していたわけです。

 

こうした人たちが、日本に反すること、政策などを行ってきている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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