先月のNHKのスクープ「天皇陛下生前退位」のニュースを聞いた時、「生前退位」と聞いてすぐに違和感を感じたが人多かったと思います。


歴史に興味がない人だと「退位」にはなにも感じなかったかもしれない。しかし、「生前」こは大方の人が不自然さを感じたのではないでしょうか?


まず退位をするということは生きていなくてはできない。つまり「生前」とつけるとまるで死ぬ直前、あるいは死んでしまった後のようになってしまいます。もちろんそんなわけではないから、おかしな言葉使いになっているのです。


そして「退位」という言葉も、現在の歴史教育での天皇の登場頻度では「譲位」が出てきているはずだから、海外の歴史はともかく日本で「退位」という言葉が出てくることにも違和感があります。「譲位」は次に譲る人がいる場合に用いるが「退位」は次に譲る人がいない、あるいは位そのものの終わりを意味する言葉です。また強制的に位を追われる場合にも「退位」が用いられます。過去の歴史をみると、突然の天皇の崩御があり譲位が出来なかった場合、その死期の発表をずらしてまで「譲位」の形を作った例がいくつもあるほど日本は天皇の「譲位」により続いてきた万世一系の国です。「退位」が使われた事例はほんのわずかですから、いかに「退位」という言葉が使われるのが異常なことかお分かりいただけるかと思います。


ところがマスメディアはずっとこの言葉を使い続けて、天皇陛下がお気持ちとして勅語を下賜された後も使い続けています。竹田恒泰氏他多くの識者が指摘しているにもかかわらず、このような異様な使い方をしているということは、なにか大きな意図があると思わざるを得ません。またそうやって使い続けることでそれが当たり前の状態に持って行こうとしています。マスメディアは本来言葉の専門家であるはず(と一般的には考えられています)ですから、私達はその意図に釣られないよう賢くならなければならないのです。


他にもこういう造語はあります。「天皇家」という言葉を使うのであれば「皇室」です。「天皇制」という制度はありません。「天皇制」というのであれば「天皇」で通じます。こういう異質な言葉を造りだし、何度も使うことで社会に浸透させようとしている人達がいますが、本来であればそこでおかしいと気づかなくてはいけないのに、その知識がないために気づかないまま使ってしまっているのが現状です。


私達日本人は、戦後71年ウォーギルドインフォメーションプログラムによるGHQの政策で日本の多くの事を歪められてきてしまいました。しかし、歪められながらも本質的な日本人気質が変わっていないのは、私達の言葉が守っていたからです。人は言葉による思考に縛られていますが、日本の言葉は大和言葉が由来の美しい言葉や考え方で、悪いことを思考しずらいようになっているからです。だからそれに反することがあると違和感を感じるのです。言葉から受ける感覚は正しいのです。


だからこそ日本語の崩壊が狙われています。じわじわと日本語は崩されていっている、その一つがおかしな言葉使いなのです。私達はこれに負けないように、おかしな言葉使いは直すように心がけるべきだと思います。


私は「君が代」問題を知った時に、どうしても意味がわかりませんでした。なぜなら「君が代」の歌詞には戦争を思わせる言葉も、戦いを意味する言葉もかけらもないからです。ところが「君が代」が戦争の歌という人達がいます。もちろん人によっては嫌な記憶の歌ということもあるかもしれない。しかし、そういう経験をした人以外には、これほど平和な歌はありません。むしろとても素晴らしい、人々の長寿を願うことから平和を願うという千年以上も伝えられてきた言霊の歌だったのです。嫌な思いをした人がいても、年月が経てば減っていくものでしょう。しかし、昔より増えているというのは異常だとしか思えません。これもある意味、言葉の撹乱ではないのだろうかと思います。


日常的に違和感を感じるのに、それが当たり前となっていることは沢山あります。


例えば、「我が国」のことを「この国」という。「この」とは目の前にあるものを指す言葉であるから、我国のことではなく我が国から言えば近隣諸国のことになってしまいます。「我が国」は「我が国」です。せいぜい言い換えるとしたら「私達の国」でしょう。だから「この国」と言われたら、何処の国のことかたずねてほしいと思うのです。
この国ってどこの国のことですか?


それから言葉の決まり事を守れない人も多いです。例えば今現在の天皇陛下のことは「天皇陛下」または「今上陛下」、あるいは「陛下」といいます。このほかの呼び方は普通の人に取っては一切ありません。ところがここに元号を付ける人がいます。元号は追号となるものつまり崩御後を意味するので、今現在元号は絶対につけません。これは日本人の基礎知識です。私達は不吉な言葉を避けるしきたりの中で暮らしているからです。ところが、いい歳をした大人がこの元号をつけています。ここ最近のメディアで何度か聞いたのだけれども、保守と言われる人の中にもいてあきれるばかりです。いい加減愚かなふるまいはやめてもらいたいのです。大人がちゃんと使えなかったら、次の世代はどうなるのでしょう?特にこのようにマスメディが意図的に(悪意をもって)違えて使っている状態なのですから。
敬語は社会の知恵


日本では貴人や大切な人の名前はむやみに言いません。ですから昔の人の名前は公式記録のない人の本名がわからないことが多くあります。例えば、紫式部も清少納言も本名ではありません。女性は大切にされていましたから本来の名前は表に出て来なかったのです。昔ほどではないにしても今でも名前を軽々しく言わないのは変わりません。私は子供の頃、天皇陛下には名前がないのだと思っていました。それほど周りの大人達は、間違えた言い方をしなかったということです。私が昭和天皇の名前を知ったのは英語学校のイギリス人に言われた時で、最初誰のことを言われているのか全く分からなかったぐらいです。そしてその時、下の名前が海外では呼び捨てのようにされているのにショックを受けました。海外で名前を呼ぶのであればなんでも欧米風にする必要はありません。エンペラーツグノミヤが最善ではないかと思います。またそのエンペラーについても、エンペラーといえば、世界中で思い浮かべるのは専横的で残虐な過去の皇帝であることを考えると、テンノウと変えてほしいと思います。つまり、人は知っているものからでしかイメージができないからです。言葉のイメージとは翻訳できないものがあったときにちょうど近しいものがあればいいが、似て非なるものであつた場合全く違うイメージがつきかねません。中華圏と日本で同じ言葉でも違うものを意味するものが沢山あり、それが誤解を招いていることもあるといいます。欧米に関しては全く違う言葉である分そういう違いは少ないようであるけれども、それでも翻訳語を当てた時にはやはり違ってくるものが出てくるでしょう。


2013年(伊勢)神宮の式年遷宮を機会に神社庁では、神様をGodと訳すのをやめ、Kamiとするようにしました。それはKamiとGodが似て非なるものであるから、そう訳すことによる弊害があるからです。それほど言葉というものの影響は大きいのです。


8月になると、日本では靖国問題が毎年起きます。これは最初に問題が起きた時に毅然と対応しなかったがために何十年も後を引くようになったのだと私は考えています。そもそも日本では死者は敵味方関係なく慰霊するものです。日本他戦地になった海外にまで敵味方関係なく日本人は碑を建て慰霊をしてきました。私達はそういう民族です。その大社である靖国神社にお参りするなにがいけないのか?自国の為に戦い亡くなった方々を敬わない国など世界中どこにもありません。戦犯かどうかなどは戦勝国の都合でしかありません。


しかも靖国神社が戦争の神社であるという人がいますが、ここは慰霊の神社です。もし戦いの神社というなら、八百万の国日本には武神の神社がいくつもあります。

国神社は元々は「東京招魂社」という社号でしたが、それを「靖国」という名前に変えたお社です。わずかな間に名前を変えたということはその命名には深い意味があると考えられます。そこで「靖国」の字を調べると、国家を安らかにするという意味です。しかもそのまま読めば「せいこく」となるのに、読み方は「やすくに」です。和歌をご存知の方でしたら、歴代の天皇の御製には「民やすかれ、国やすかれ」という言葉が頻繁に登場することを頭に浮かべられるかと思います。これは天皇の祈りの言葉なのです。そして日本中で唱えられる大祓詞にも「安国(やすくに)」は登場します。つまり、これはとても一般的なお祈りの言葉ということです。だから戦後占領下などを除けば何の問題もなかったのです。ところがある時を境に問題にされるようになったというのは、言葉の意味がわからなくなってきた人が増えて来たからということがあると思うのです。その要因は戦後神社や天皇についての教育が行われなくなったからです。


でもそうはいっても、普通に国語を学んでいれば違和感があるはずなのです。なぜなら「やすくに」という大和言葉の名前になんらおかしなところはないからです。私自身がそう感じてきました。子供の頃なんだかいつも新聞で騒いでいるけれど、おかしいな?と感じていたのです。ただし自虐史観の影響があります。しかしそれでも不自然に感じていました。なぜなら私が知っていたあらゆることが違和感を唱えていたからです。周りの人達が皆嘘つきばかりで、暴力的で信じられない世界にいたのならわかりますが、私はそういう世界で育ったわけではないのです。言葉も子供の頃から、不吉な言葉、悪い言葉は戒められて育ってきました。悪い環境では悪い言葉を使いますし、環境が良ければ言葉使いも良いものを使おうとするのです。別に上品な言葉使いが出来るわけではありませんが、私は良い言葉を良しとする中で育ったのです。


だから私は靖国神社の名前が祈りの名前であると知った時、明治天皇が先を見据えて命名されたかのように思えて感動しました。私が初めて靖国神社に行った時、大きいけれども廃れたような寂しい神社でした。みたま祭りにも寂れ感があったように記憶しています。しかし、年を追うごとに靖國の騒ぎが増していき、それと同時に逆に靖国神社も注目を集め参拝客が増えてそして神威を増して行ったように思えるのです。これは、「やすくに」という名前を多くの人々が繰り返し繰り返し言った言霊の効果ではないかと思います。つまり、明治天皇はその命名に言霊の祈り、呪を込めたのではないかと。そして良い意味でも悪い意味でも注目され続けることで見直す人々も増えてきたのが現在だと考えると、名前の言霊の力は凄いと思うのです。言霊の助くる国、日本です。


そしてそう考えた時、言霊幸ふ国である日本人が言葉をちゃんと考えないようではいけないと強く考えるようになりました。言葉には意味が有りますが、音霊ともいうように音にも意味があるといいます。つまり50音一字一字に意味があるのです。考えてみれば31文字の和歌に沢山の意味が込められるのも、その言葉や音感を大切にしているからではのこと。意思の疎通ができなければ、人間関係も、社会も、国も成り立ちません。そして、言葉を伝える文字がわからなくなると、古来からの歴史や文化、伝統もわからなくなるのです。江戸時代、町民でさえも文字さえ読めれば江戸時代以前の書物を楽しんでいました。明治期も、多くの人々は江戸時代の書物を読んでいました。しかし、現在江戸時代の書物やそれ以前の書物が読めるのは研究者ぐらいです。これは、文字の断絶を、明治期と終戦後二段階に渡って行ってしまったからです。せっかく伝わってきた漢字を大幅に簡略した中共では、それ以前の書物が全く読めなくなり、歴史もわからなくなっているといいます。そして漢字を捨て去った韓国でも同様です。これほど発達した文字であり歴史もある漢字をなくすことは、文化・歴史・伝統等あらゆる断絶を生み出すのです。私は、時間はかかっても漢字だけでももう一度元に戻した方がいいと考えています。そして戻すのは早く始めた方がいいと思います。ゆとり教育をすることで、教育にゆとりは必要ないことがわかりました。同様に言葉・文字も簡易化は必要ないのです。



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