以前から疑問に思っているのですが、どうしてそういう意味に取れるの?ってことが沢山ある。


その筆頭が「君が代」です。世界中の国歌と比較してもこんなに平和な歌はない。


しかも世界一古い(国歌の)歌詞です。


各国の国歌の意味は各国語が全部わかる人などいないでしょうし、ほとんどの人は、五輪の時などただメロディを感じるとるだけでしょう。そこで実際に歌詞を知ると、その過激さや残虐さに驚かされる曲が少なくないのです。



君が代は、1100年以上も前に歌われ、そこから読み取れる事が何重にもあります。ところが一方で、難解な和歌が他に沢山あるにも関わらず、1100年後の現在の私達が単純に歌詞が読み取れる歌でもあります。


君が代は
千代に八千代に
細石の
巌となりて
苔のむすまで



和歌ですから、深い意味が沢山あります。でも、歌詞だけの意味なら、ちょっと教えてもらえれば現代も通じる分かりやすい歌です。


ここには、戦いも呪いもありませんし、歌われる相手を讃え倒しているわけでもありません。


「君」の意味は、単純に「あなた」です。天皇陛下がいらっしゃれば、もちろん陛下のこととなりますが、「君」は陛下だけを表す言葉ではありませんから、「陛下」を指しながらもその場にいる人を皆寿ぐ、言霊の歌なのです。だから、古来より長寿や永遠を寿ぐ歌として、結婚式や長寿のお祝いに歌われ愛され、幕末には日本中の誰もが知っている歌となりました。誰もが知っているから、国歌を決めるときにこの歌が選ばれたのです。


そして、「君」を天皇陛下として歌うとき、その天皇陛下とは国と一体化します。その国とは日本、我が国、祖国のことです。普通、世界中の人々には必ず祖国、我が国があるのです。つまり結局はその国の民である私達を寿ぐ歌となります。


そして、国際舞台で歌われる時はもちろんその場の国々、人々をも寿ぐのです。


世界一の国歌だと思います。


ところが「君が代」は戦争の歌、戦争を連想させるという人々がいます。


人の感情とは、他の人がコントロール出来ないものです。だから、何かのきっかけでどんなに素晴らしいものでも嫌いになる、受け入れられない、ということはあります。だから、そういう経験をされた方は、しょうがないと思います。


例えば、和歌山カレー事件ではカレーが嫌いになったり食べられなくなる人がいたと聞きました。もうそれはしょうがありません。カレーが悪いのでもないし、嫌いになったり食べられなくなった人達が悪いわけでもありません。無理して食べる必要もありませんし、誰も無理矢理食べさせないでしょう。そして、食べられなくなった方々も、だからカレーは食べるな!!なんてことを他の人に無理強いはしていないでしょう。



戦時中に「君が代」が嫌になった人がいてもおかしくありません。沢山の人がいて、千差万別の感情があるなかに、そういう人がいても不思議でもなんでもないです。ただ、それは個人の感情であって、人に押し付けるものでもありません。


普通に聞いて、「君が代」のどこにも戦争や戦い、紛争、争い、またそのきっかけになるような妬みや嫌悪等の悪い意味合いは欠片もないのです。


そして、和歌としての何重にもある意味の中にも、そんな意味が読み取られたと聞いたことがありません。


だから、そういう感情を抱いた人達がいたとしても、普通の日本人であればそれをそれを他の人達に押し付けなかったでしょうし、戦後70年も経っています。



それなのに「君が代」は戦争の歌という。


それはもしかしたらそんな意味も読み取れないほど国語ができないから、そう思うのかもしれない。


いや、まさかね?と思う。


でも、併合を植民といわれても、皆訂正出来ていないではないか?


区別を差別と言われているではないか?


批判や事実の指摘をヘイトと言い替えしているではないか?


捏造を勘違いと誤魔化しているではないか?


そして、そんな言葉遣いでの各問題の隠蔽に、回りの人々が無反応過ぎるのは、国語力が落ちているからではないか?


歴史を学べば日本は現在の中国韓国と戦争をしたことはないし、朝鮮半島と台湾は植民地ではなく併合だったというのもわかるはず。植民地と併合ではその運営は全く違います。


そういうことが分かっていれば、中国韓国北朝鮮の、言いがかりにも毅然と対応出来るはずですが、歴史教育そのものが歪んでいます。


歴史は、必ず人の手が入るから、それぞれの人、国の思惑が入ってしまうものです。でも、それを差し引いても、日本の自虐史観はヒストリーなんだとアメリカの教授が言っています。中国はプロパガンダ、韓国にいたってはファンタジーと同教授は言っているのです。



ところがそんな自虐史観で歴史教育が歪んでいても、国語さえしっかり教えていればある程度防げるのです。


私は子供の頃から、歴史特に近代史に微妙な違和感を感じてきました。だから、歴史教育特に近代がちゃんとされないのと同時に、自分でもその時代の探求をやってこなかったんです。


その微妙な違和感とは何か?


それは日本で生まれ育ち生活し、そして、自分の祖父達以上の世代を見聞きしていれば感じる齟齬です。


これは私が知っている世代じゃない、私が知っている日本人じゃない、という違和感です。


でも子供の頃はそれが何か分からなかった。大人になってからは、現実を知るのが怖くて見て見ないふりをしていた。靖国問題が起きた時も、普通の日本人なら亡くなった人を祀るのに違和感はないから何言ってるんだ?と思いながらも、ニュースをそれ以上知ろうともしなかった。


ところが、ある時を機に歴史探求を始めたら、玉手箱のように、素晴らしい先人達や史実が次から次に現れるではありませんか。なんでもっと早くに探究を始めなかったのかと後悔しました。


日本は、言霊、音霊の国と言います。そんなの本当か?と言う人でも、毎日使う言葉に人は影響されるというのは納得できるんじゃないでしょうか。


脳科学でも、アファメーション、つまり肯定的に表現するのが大事といいます。つまり良いことを言うのと、悪いことを言うのでは自分に与える影響が違うということが、科学でも証明されているわけです。


だとしたら、古来から日本で使われてきた言葉による日本独特の思考習慣もあるわけです。言葉というのは、その言語を使う人の思考回路への影響が大きく、その言葉を見れば、その国の特色がわかるというのはそこからきています。


それは、外国語に詳しい方やバイリンガルの方々がよく言っています。私のような英語に何度も挫折している人間でも、英語を使うときと日本語の時では性格が少し変わります。


戦後、GHQ のウオーギルドプログラムで、日本の教育環境は悪化しました。しかし、それでも変えられなかったものが沢山あったのは、日本語があってその日本語でしか考えられない思考習慣があったからです。そしてそれが私に歴史の齟齬を与えていたんです。


それは日本語のおかげ、国語が基本変わらずにあったからです。(もちろん色々変えられたところがありますが)


しかし、歴史教育にばかり注目が集まるなか、気づいたら国語教育や言葉への考え方が悪化しています。


明治の義務教育が始まったばかりで、最高学年が四年生だったときの四年生の授業は週21時間の内、11時間が国語関連でした。*


国語が全ての基本ですから、国語に力を入れていたわけです。なにしろ、国語力がなければ歴史はもちろん、算数も理科も学べない。外国語も無理だし、コミュニケーションにも弊害が表れる。当時の少ない義務教育時間の中で、独学でも学べる力を短期間に身につけるには国語力の強化だったのです。また子供でも働くのが当たり前だった当時、その後の即戦力にもなるものは、その国語力です。


当時の教科書を見れば現代の大人でも読めないような漢字、文章を読んでいました。いかに今の国語教育が劣化しているか分かろうというものです。私は以前はそれは時代の変化だと思っていたのですが、教育の劣化と知ってから悔しく思っています。


戦時中、若い命を散らした若者達が沢山和歌を詠んでいました。当時のエリートの若者達です。



ところが当時より教育が普及している現在、和歌を詠める若者があなたの回りにいるでしょうか?


万葉の時代より、天皇から庶民まで歌を詠んできた国なのに、一番教育が普及している現代その文化が途絶えそうなほど歌を詠むのが特別なこととなっているのは異常じゃないでしょうか。


今こそ、もっと国語教育を。


国語が充実化すれば日本はきっと変わる!そう思います。


*読本4時間、修身2時間、綴方2時間、書方3時間



☆英語は必要ですが、英語化は不要!!是非御一読を→「英語化は愚民化」