祭日とは天皇の命日のことです。年間102日あります。
★七十代後冷泉天皇は藤原氏全盛期最後の平安時代の天皇です。
生年は一〇二五年。
御名は親仁(ちかひと)。
御父は後朱雀天皇、御母は藤原嬉子、藤原道長の娘です。また後朱雀天皇の父君である一条天皇の中宮は藤原彰子、つまり祖母も藤原の道長の娘となります。しかも彰子と嬉子は同母の姉妹でもありました。
彰子といえば、「源氏物語」の紫式部が女房として仕えていたのは有名です。そして後冷泉天皇の乳母は、その紫式部の娘の大弐三位でした。きっと紫式部の縁で乳母になったのでしょう。
在位期間、一〇四五年~一〇六八年。
在位中奥州にて前九年の役が起きました。この頃安倍氏が朝廷への貢租を怠っており陸奥守藤原登任が安倍氏を討伐しようとして敗れ、登任は更迭され都へ戻されました朝廷は河内源氏の源頼義を陸奥守として事態の収拾を図ります。その頃天皇の祖母の上東門院の病気回復祈願のために大赦を行い安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦免されました。しかし五年後その源頼義の営所を安倍氏が襲うのです。(前九年の役)これには婚姻のもめごとがあることを頼義は配下の藤原光貞から聞き出しますが、安倍氏は出頭を拒否し、再び朝廷との戦いになるのです。頼義は苦戦を強いられますが中立を保っていた豪族の清原氏の参戦により形勢が逆転し安倍氏は滅亡、清原氏が奥州の覇者となりました。
後冷泉天皇には、中宮章子内親王を皇太后に、皇后の藤原歓子・寛子と三人の正妃が並び立っていましたが皇子が一人もいませんでした。皇子が生まれないまま崩御されたので、藤原氏を外戚としない異母弟の尊仁親王が即位(後三条天皇)されました。これは五九代宇多天皇以来のことでした。
一〇六八年崩御。
御陵は園教寺陵で、京都市右京区龍安寺朱山町にあります。
★百四代後柏原天皇は室町時代、応仁の乱後の戦国時代の天皇です。
生年は一四六四年。
御父は後土御門天皇、御母は庭田朝子。
御名は勝仁(かつひと)。
在位期間は、一五百年~一五二六年。
応仁元年(一四六七年)勃発の応仁の乱は、京都を主戦場として、十年間に及びました。そのため、京都の戦闘が収束した時、街は焦土と化し、皇室財政を賄う禁裏御料をはじめ公家の所領の多くは略奪され、朝廷の行事や儀式はほとんど中止をよぎなくされていました。公家も多くは地方に疎開し、大名に保護されていました。荘園制も実質的に崩壊していたのです。
そのため御土御門天皇は、中絶した朝儀を再興のため尽力しましたがほとんど実現しないうちに崩御。しかし財政難の為、葬儀は四三日間挙行できませんでした。天皇崩御を受けて第一皇子が践祚し後柏原天皇が成立したのですが、そんな状態でしたから即位礼は二十一年後やっと行われたのです。経費節約し室町幕府や本願寺の献金等をあわせてのことです。
また大嘗祭は以降九代に渡って中断されるました。
在位中には、日明貿易で来日した支那人からの感染とみられる性病の梅毒が京都で大流行し日本最古の発症事例となりました。
しかし、そんなにも貧窮していたにもかかわらず、後柏原天皇はつねに天下の平安を祈り、疱瘡が大流行した際には自ら筆をとった「般若心経」を延歴寺と仁和寺に奉納し、万民の安寧を祈願しています。
在位中は荒廃した国土の中、貧窮し苦労されましたが、任命された将軍を追放されて起こって辞意を表明されたり、即位式に出席しない将軍を追放したり、間違ったことには厳しい態度をとられました。
一五二六年崩御。
御陵は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)で、京都市伏見区深草坊町にあります。
★百十五代桜町天皇は江戸時代、徳川吉宗の頃の天皇です。
生年は一七二十年。
御父は中御門天皇、御母は近衛尚子(徳川家宣の猶子)、つまり徳川家は外戚となります。そのためか、この時代は朝幕関係が穏便な時期です。
御名は昭仁(てるひと)。
在位期間は、一七三五年~一七四七年。
父帝の譲位により践祚、聖徳太子の再来と言われ、朝廷の儀式の復活に力を注いでいます。また歌道や書道にも優れ、御製は「桜町院御集」や「桜町院坊中御会和歌」にまとめられています。
「身の上はなにか思はむ朝な朝な国やすかれといのるこころは」桜町天皇(元文五年、一七四一年)
これは、天皇が祈る人であるのがよくわかる御製です。御歴代の天皇は毎日、国と大御宝(おおみたから)つまり民のために祈り、それは今も天皇が続けていることだといいます。朝な朝な、とは宮中祭司祀の毎朝の御拝のことです。
在位中には大岡忠相の建議により貨幣改鋳が行われ最初はインフレとなりましたが、その後安定し以後100年近く流通するのものとなりました。
また国学の四大人といわれる賀茂真淵がこの頃京から江戸に移住し国学を講じています。国学は儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問を批判し、日本の古典を研究して儒教や仏教の導入以前から日本にあった独自の文化・思想・精神世界(古道)を研究する学問です。
平安時代の菅原道真の失脚事件を題材にした人形浄瑠璃が初めて演じられて人気を博し、人形浄瑠璃及び歌舞伎の代表的演目となりましたのもこの時代のことです。
一七三九年にはロシアが派遣した探検船が仙台湾や放送房総半島などに来航(元文の黒船)。これが日露両国の接触の最初となりました。
桃園天皇に譲位し、院政を開始されますが積極的に政治や学問の振興策を主導され、幕府からの干渉を避けられました。しかしわずか三年で崩御されました。
一七四七年崩御。
御陵は月輪陵で、京都市東山区今熊野泉山町にあります。
参照:
「宮中祭祀」展転社
※祭日の日付は上記から、しかし旧暦の関係か本により崩御日が違います。
「旧皇族が語る天皇の日本史」PHP新書
「天皇を知りたい」学研
「歴代天皇で読む日本の正史」錦正社
他
★七十代後冷泉天皇は藤原氏全盛期最後の平安時代の天皇です。
生年は一〇二五年。
御名は親仁(ちかひと)。
御父は後朱雀天皇、御母は藤原嬉子、藤原道長の娘です。また後朱雀天皇の父君である一条天皇の中宮は藤原彰子、つまり祖母も藤原の道長の娘となります。しかも彰子と嬉子は同母の姉妹でもありました。
彰子といえば、「源氏物語」の紫式部が女房として仕えていたのは有名です。そして後冷泉天皇の乳母は、その紫式部の娘の大弐三位でした。きっと紫式部の縁で乳母になったのでしょう。
在位期間、一〇四五年~一〇六八年。
在位中奥州にて前九年の役が起きました。この頃安倍氏が朝廷への貢租を怠っており陸奥守藤原登任が安倍氏を討伐しようとして敗れ、登任は更迭され都へ戻されました朝廷は河内源氏の源頼義を陸奥守として事態の収拾を図ります。その頃天皇の祖母の上東門院の病気回復祈願のために大赦を行い安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦免されました。しかし五年後その源頼義の営所を安倍氏が襲うのです。(前九年の役)これには婚姻のもめごとがあることを頼義は配下の藤原光貞から聞き出しますが、安倍氏は出頭を拒否し、再び朝廷との戦いになるのです。頼義は苦戦を強いられますが中立を保っていた豪族の清原氏の参戦により形勢が逆転し安倍氏は滅亡、清原氏が奥州の覇者となりました。
後冷泉天皇には、中宮章子内親王を皇太后に、皇后の藤原歓子・寛子と三人の正妃が並び立っていましたが皇子が一人もいませんでした。皇子が生まれないまま崩御されたので、藤原氏を外戚としない異母弟の尊仁親王が即位(後三条天皇)されました。これは五九代宇多天皇以来のことでした。
一〇六八年崩御。
御陵は園教寺陵で、京都市右京区龍安寺朱山町にあります。
★百四代後柏原天皇は室町時代、応仁の乱後の戦国時代の天皇です。
生年は一四六四年。
御父は後土御門天皇、御母は庭田朝子。
御名は勝仁(かつひと)。
在位期間は、一五百年~一五二六年。
応仁元年(一四六七年)勃発の応仁の乱は、京都を主戦場として、十年間に及びました。そのため、京都の戦闘が収束した時、街は焦土と化し、皇室財政を賄う禁裏御料をはじめ公家の所領の多くは略奪され、朝廷の行事や儀式はほとんど中止をよぎなくされていました。公家も多くは地方に疎開し、大名に保護されていました。荘園制も実質的に崩壊していたのです。
そのため御土御門天皇は、中絶した朝儀を再興のため尽力しましたがほとんど実現しないうちに崩御。しかし財政難の為、葬儀は四三日間挙行できませんでした。天皇崩御を受けて第一皇子が践祚し後柏原天皇が成立したのですが、そんな状態でしたから即位礼は二十一年後やっと行われたのです。経費節約し室町幕府や本願寺の献金等をあわせてのことです。
また大嘗祭は以降九代に渡って中断されるました。
在位中には、日明貿易で来日した支那人からの感染とみられる性病の梅毒が京都で大流行し日本最古の発症事例となりました。
しかし、そんなにも貧窮していたにもかかわらず、後柏原天皇はつねに天下の平安を祈り、疱瘡が大流行した際には自ら筆をとった「般若心経」を延歴寺と仁和寺に奉納し、万民の安寧を祈願しています。
在位中は荒廃した国土の中、貧窮し苦労されましたが、任命された将軍を追放されて起こって辞意を表明されたり、即位式に出席しない将軍を追放したり、間違ったことには厳しい態度をとられました。
一五二六年崩御。
御陵は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)で、京都市伏見区深草坊町にあります。
★百十五代桜町天皇は江戸時代、徳川吉宗の頃の天皇です。
生年は一七二十年。
御父は中御門天皇、御母は近衛尚子(徳川家宣の猶子)、つまり徳川家は外戚となります。そのためか、この時代は朝幕関係が穏便な時期です。
御名は昭仁(てるひと)。
在位期間は、一七三五年~一七四七年。
父帝の譲位により践祚、聖徳太子の再来と言われ、朝廷の儀式の復活に力を注いでいます。また歌道や書道にも優れ、御製は「桜町院御集」や「桜町院坊中御会和歌」にまとめられています。
「身の上はなにか思はむ朝な朝な国やすかれといのるこころは」桜町天皇(元文五年、一七四一年)
これは、天皇が祈る人であるのがよくわかる御製です。御歴代の天皇は毎日、国と大御宝(おおみたから)つまり民のために祈り、それは今も天皇が続けていることだといいます。朝な朝な、とは宮中祭司祀の毎朝の御拝のことです。
在位中には大岡忠相の建議により貨幣改鋳が行われ最初はインフレとなりましたが、その後安定し以後100年近く流通するのものとなりました。
また国学の四大人といわれる賀茂真淵がこの頃京から江戸に移住し国学を講じています。国学は儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問を批判し、日本の古典を研究して儒教や仏教の導入以前から日本にあった独自の文化・思想・精神世界(古道)を研究する学問です。
平安時代の菅原道真の失脚事件を題材にした人形浄瑠璃が初めて演じられて人気を博し、人形浄瑠璃及び歌舞伎の代表的演目となりましたのもこの時代のことです。
一七三九年にはロシアが派遣した探検船が仙台湾や放送房総半島などに来航(元文の黒船)。これが日露両国の接触の最初となりました。
桃園天皇に譲位し、院政を開始されますが積極的に政治や学問の振興策を主導され、幕府からの干渉を避けられました。しかしわずか三年で崩御されました。
一七四七年崩御。
御陵は月輪陵で、京都市東山区今熊野泉山町にあります。
参照:
「宮中祭祀」展転社
※祭日の日付は上記から、しかし旧暦の関係か本により崩御日が違います。
「旧皇族が語る天皇の日本史」PHP新書
「天皇を知りたい」学研
「歴代天皇で読む日本の正史」錦正社
他