今日は、
本当に、
暑かったんです。
どれくらい暑かったかと言いますと、
もう、
外に出た瞬間に、
溶けてしまうのではないかと思うくらいでした。
私は、
ほんの少しのつもりで、
家の近くを歩いただけでした。
ただの散歩です。
近所を、
ぶらりと、
歩いただけなのです。
でも、
その散歩が、
とんでもない事態を、
引き起こしてしまったのです。
これは、
単なるお散歩ではありません。
人によっては、
命がけの冒険以上の意味を、
持っているのです。
では、
いったい、
何が起きたのでしょうか。
少し、
お話しさせてください。
たとえば、
夏の日に、
冷たいアイスクリームを買うとします。
お店を出た瞬間から、
アイスクリームは、
すごい勢いで溶け始めます。
慌てて食べても、
手がベタベタになってしまいます。
あの、
どうしようもない焦り。
あの感覚です。
それと同じことが、
私の身に起きたのです。
いえ、
それ以上かもしれません。
では、
いったい、
何があったのでしょうか。
それは、
『気温』
というものです。
夏日(かじつ)、
あるいは、
猛暑日(もうしょび)と呼ばれる、
あの容赦ない太陽の光です。
私たちは、
普段、
何気なく外を歩いています。
「ちょっとそこまで」
と言って、
財布だけ持って出かけます。
でも、
その「ちょっとそこまで」が、
大きな罠(わな)だったりするのです。
ようするに、
人間の体というのは、
私たちが思っている以上に、
デリケートなのです。
ちょっとした暑さで、
すぐに、
参ってしまいます。
ここで、
問題になるのが、
『自分の体力』
というものです。
若い頃なら、
どれだけ歩いても平気でした。
太陽の下を、
汗をかきながら走り回ることもできました。
でも、
今はどうでしょうか。
少し歩いただけで、
息が切れます。
足が重くなります。
頭がクラクラしてきます。
これは、
老化(ろうか)現象なのだと、
言われてしまうかもしれません。
そう考えると、
少し、
切なくなります。
でも、
それだけではないのです。
問題は、
『現代の気候』
そのものにあるのです。
昔の夏と、
今の夏は、
まったく違います。
昔の夏は、
もう少し、
優しかったような気がします。
木陰に入れば涼しかったし、
夕方になれば、
心地よい風が吹いていました。
でも、
今の夏は、
違います。
アスファルトは、
まるでフライパンのようです。
上からも下からも、
熱が襲いかかってきます。
そんな過酷な世界を、
私たちは、
毎日のように歩いているのです。
これは、
スゴイことです!!
本当に、
生き延びているだけで、
私たちはすごいことをしているのです。
そう考えると、
近所を少し散歩しただけで、
汗だくになって帰ってきた私の姿も、
なんだか誇らしく思えてきます。
いや、
誇らしいどころか、
もうボロボロでしたけれど。
玄関を開けた瞬間、
クーラーの風が、
全身を包み込みました。
あの時の感動は、
言葉では言い表せません。
天国とは、
こういう場所のことを言うのだと思いました。
冷たいお水を飲みました。
生き返るような心地がしました。
ここで、
少し、
話しは変わりますが、
私たちは普段、
当たり前のように、
外に出かけています。
仕事に行き、
買い物に行き、
散歩をします。
でも、
その当たり前の日常が、
どれほど奇跡的なバランスの上で成り立っているか、
考えたことはあるでしょうか。
一歩間違えれば、
熱中症(ねっちゅうしょう)になって倒れてしまうかもしれない。
そんな危険と隣り合わせの場所で、
私たちは生きているのです。
そう思うと、
外を歩くということ一つとっても、
ものすごいドラマなのだと感じます。
ただの散歩が、
まるで、
大冒険のようになってしまう。
人生とは、
そういうものかもしれません。
思い通りにいかないことばかりです。
少し歩くだけで、
疲れてしまう。
汗だくになって、
恥ずかしい思いをする。
でも、
そのあとに飲むお水の美味しさや、
クーラーのありがたさに気づくことができます。
苦しみがあるからこそ、
喜びが引き立つ。
そんな大きな真理を、
近所のお散歩という、
あまりにもちっぽけな出来事が、
教えてくれたような気がします。
もちろん、
ただ暑かっただけなんですけどね。
あまりにも暑くて、
頭がおかしくなりそうだったから、
こんな大げさなことを考えてしまったのかもしれません。
でも、
たまには、
こういう暑さについて真剣に考えるのも、
悪くないと思います。
本当に、
暑さには、
気をつけてください。
皆さんも、
「ちょっとそこまで」
と言って出かけるときは、
十分すぎるくらいの準備をしてくださいね。
水分補給(すいぶんほきゅう)を忘れないでください。
日傘(ひがさ)を差してください。
無理は禁物です。
自分の体を、
一番に守ってあげてください。
そうやって、
自分を大切にすることが、
周りの人を大切にすることにも、
つながっていくのだと、
私は信じています。
自分だけではありません。
自分の周りも、
そして、
私たちが暮らすこの地球の環境までもが、
優しくなっていってほしい。
そんな大きな願いを込めて、
今日から私は、
涼しい部屋の中で、
大人しく過ごそうと心に決めました。
外に出るのは、
もう少し、
涼しくなってからにします。
本当に、
今日は暑かった・・。
それだけの話なのに、
なんだか長くなってしまいました。
最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
また次回のブログでお会いしましょう。
少し、
話しは変わりますが、
みなさんは、
部屋の中で過ごすとき、
どんなふうに時間を過ごしていますか。
たとえば、
冷房の効いた部屋で、
冷たいお茶を飲む。
それだけでも、
生き返るような気持ちになります。
本当に、
生き返る心地がします。
では、いったい、
その「生き返る」という感覚は、
どこから来るのでしょうか。
それは、
ただ体温が下がるからだけではない、
ような気がするのです。
もっと、
心の奥深いところで、
何かがほどけていくような感覚です。
緊張(きんちょう)していたものが、
ふっと緩(ゆる)んでいく。
そういう瞬間(しゅんかん)なのだと思います。
ここで、
少し思い出してほしいことがあります。
子どもの頃のことです。
夏休み。
外で思いっきり遊んで、
汗だくになって家に帰る。
お母さんが、
「おかえり」と言って、
冷えた麦茶を出してくれる。
あのときの、
心の底からホッとする感じ。
それは、
単に喉(のど)の渇きが潤(うるお)う、
ということだけではなかったはずです。
安心感(あんしんかん)。
安全な場所にいるという、
確信(かくしん)。
そういうものが、
あの冷たい一杯の中には、
ちゃんと詰まっていたのです。
そう考えると、
私たちが日常で感じている「心地よさ」というのは、
単なる物理的な快適さだけではない、
ということになります。
もっと、
精神的なものと深く結びついている。
では、いったい、
その精神的な安心感は、
どこから生まれるのでしょうか。
それは、
自分を大切に扱ってくれる誰かの存在や、
あるいは、
自分自身を自分で労(ねぎら)う、
その優しさの中にあるのではないでしょうか。
少し、
抽象的な話になってきました。
でも、
もう少しだけ付き合ってください。
たとえば、
私たちが普段使っている「言葉」についても、
同じことが言えると思うのです。
言葉というものは、
不思議な力を持っています。
人を傷つけることもできれば、
人を救うこともできる。
それは、
誰もが知っている事実です。
でも、
それだけではありません。
言葉は、
もっと目に見えないところで、
私たちの心や体に、
大きな影響を与えているのです。
たとえば、
疲れているときに、
誰かから温かい声をかけられる。
「お疲れ様」
「頑張っているね」
そう言ってもらうだけで、
なんだか急に、
涙が出そうになったりしませんか。
私は、あります。
何度もあります。
それは、
言葉が持つ、
ある種の『温もり』が、
直接心に届くからなのだと思います。
言葉が持つ、
『温もり』。
それは、
物理的な熱とは違います。
でも、
確実に私たちの体温を、
ほんの少しだけ上げてくれるような、
そんな力を持っているのです。
では、いったい、
その言葉の温もりは、
どこからやってくるのでしょうか。
それは、
発する人の、
心構え(こころがまえ)から来るのです。
相手を思いやる気持ち。
相手の幸せを願う心。
そういうものが、
言葉の端々(はしばし)に宿(やど)る。
そして、
それが聞いた人の心に届く。
そう考えると、
私たちが発する一言一言には、
想像以上の重みがあるということになります。
自分では適当に言ったつもりでも、
相手にとっては、
一生忘れられない言葉になるかもしれない。
逆に、
何気なく発した冷たい言葉が、
誰かの心を深く傷つけてしまうかもしれない。
そう思うと、
言葉を使うことって、
なんだか少し、
怖くなりませんか。
私は、なります。
自分の発した言葉が、
誰かを傷つけていないだろうか。
そんなふうに、
不安になることもあります。
でも、
だからこそ、
面白いとも思うのです。
言葉という、
目に見えないツールを使って、
私たちは人とつながることができる。
温もりを分かち合うことができる。
それは、
スゴイことではないでしょうか。
地球の反対側にいる人とでも、
瞬時に言葉を交わせる時代になりました。
すごいスピードで、
情報が駆け巡っています。
便利です。
本当に、
便利な世の中になりました。
でも、
その一方で、
私たちは大切な何かを、
忘れてしまってはいないでしょうか。
効率(こうりつ)ばかりを求めて、
言葉の温もりを、
どこかに置き忘れてきてしまったりは、
していないでしょうか。
問題は、
そこにあるような気がします。
いくら便利になっても、
人間の心が冷たくなってしまったら、
元も子もありません。
いくら情報があふれていても、
そこに思いやりの心がなければ、
ただの雑音(ざつおん)になってしまう。
だからこそ、
私たちは立ち止まる必要があるのです。
立ち止まって、
自分の足元をしっかりと見つめ直す。
そして、
自分の内側にある、
優しさの種を、
もう一度育て直してみる。
そういう時間が、
どうしても必要なのだと思います。
自分を大切にする。
自分の周りの人を大切にする。
そして、
言葉を大切にする。
それらはすべて、
繋(つな)がっているのです。
バラバラではありません。
一本の太い幹(みき)のように、
しっかりと繋がっている。
そう考えると、
私たちが普段している何気ない選択や、
ちょっとした行動のすべてに、
大きな意味があると言えるかもしれません。
「そんな大げさな」
と思われるかもしれません。
「私一人が変わったところで、
世の中なんて何も変わらないよ」
そう感じることもあるでしょう。
でも、
本当にそうでしょうか。
実は、
そんなことはないと、
私は強く信じています。
一滴の水滴が、
やがて大きな波紋(はもん)を広げるように。
一人の小さな優しさが、
やがて周囲を温かい空気に包み込んでいく。
それは、
確実にある現象なのです。
自分が変わる。
すると、
見えてくる景色が変わる。
景色が変わると、
接する態度が変わる。
態度が変わると、
相手の反応が変わる。
そして、
その輪が少しずつ広がっていく。
自分から始まった小さな優しさが、
いつの間にか、
遠くの誰かを笑顔にしている。
そんな奇跡のようなことが、
私たちの日常のあちこちはで、
起きていたりするのです。
もちろん、
毎日が良いことばかりとは限りません。
嫌なこともあります。
理不尽(りふじん)なことに怒りを覚える日もあります。
どうしようもなく疲れて、
すべてを投げ出したくなる夜もあります。
人間ですから、
それは仕方のないことです。
完璧(かんぺき)な人なんて、
どこにもいません。
みんな、
悩みながら、
迷いながら、
それでも一生懸命に生きている。
それが、
私たち人間なのだと思います。
だからこそ、
うまくいかない日があってもいい。
落ち込む日があってもいい。
そんな自分を、
まずは自分が許してあげる。
「今日はよく頑張ったね」
そう心の中で声をかけてあげる。
それが、
何よりも大切なことなのだと、
私は思うのです。
自分に厳しくしすぎない。
少しだけ、
自分に優しくしてあげる。
そうやって、
自分の心の中に、
小さなオアシスを作る。
涼しい部屋で冷たいお茶を飲むように、
自分の心にも、
ホッとできる時間と空間をプレゼントしてあげる。
それができたら、
きっと、
まわりの人に対しても、
もう少しだけ優しくなれるはずです。
「お疲れ様」
その一言を、
自然に笑顔で言えるようになる。
それだけで、
世界は少しだけ、
優しくなるのです。
本当に、
少しずつかもしれませんが。
でも確実に、
温かい方向へと動き出す。
そう信じてみるだけで、
毎日の景色が、
違って見えてきたりします。
暑い夏の日の、
窓辺から差し込むまぶしい光さえも、
なんだか愛おしく思えてくるから不思議です。
生きている。
それだけで、
本当は素晴らしいことなのだと、
ふと思えたりする。
そんな瞬間を、
これからも大切にしていきたい。
そう心から思います。
長々と、
まとまりのない話を、
ここまで読んでいただき、
本当にありがとうございました。
みなさんの日常が、
少しでも心地よく、
そして温かいものでありますように。
暑さはもう少し続きますが、
どうか体調を崩さないよう、
ご自愛(じあい)ください。
また、
お会いできる日を、
楽しみにしています。