命には古い命と新しい命がある。
どちらも同じ価値があると人は言う。果たして本当にそうだろうか?
例えばお父さんとお母さん、そしてその息子や娘といった一組の家族がいたとする。
その家族が大きな災害や事故などに巻き込まれた時、命を助けるための優先順位をつけるとしたら、どのようにすればいいだろう?
模範解答としては、助かる見込みのある命から助けるという回答がある。命を平等と考えている視点から出発すれば、その回答は限りなく正解に近いと言えるだろう。
あるいは子どもの命をから助けるという選択肢もあるかもしれない。しかしこれは事前に両親がその願いを救助する側に伝えられた時に限られるだろう。第三者が勝手に家族内の優先順位をつけるわけにはいかないからだ。
家族の所属する共同体の中で常識と認識されている倫理に従って助けるという答えもある。緊急事態であれば、俺もそう判断するかもしれない。
わからない。
空木夜雨はまだまだひよっこで、命を価値を判断できないでいた
これは俺の求めている回答じゃない。そう夜雨の魂が頭の中で囁いている。
夜雨の求めている答えとは何か?それは決まっている。それは家族全員を助ける方法だ。
しかしそんな方法が現実に存在しないことを理解できるくらいには、夜雨は日夜勉学に努め、きちんとした学問をその身に修めていた。
世界は嵐の中。
夜雨の乗る船はとても小さい小舟でしかなく、真っ暗な海の上、それも嵐の中を進むにはあまりにも頼りない。
冷たい海水が体温を奪い去り、暗い深海の底に夜雨を飲み込もうとしている。
大人なら決してこんな無茶な航海はしない。しかし幼い夜雨はその危険性に気がついていなかった。
ぐるぐると回る空と雲。
どす黒い海の青色はまるで巨大な怪物の垂れ流す血溜まりのようにも思えてくる。
上下に激しく運動を繰り返す大波。ロープに捕まる手が痺れて感覚がなくなっていく。激しい雨が夜雨の体を打ち付ける。暴風や雷雲の音でかき消され、耳は本当に必要な音を拾ってくれない。
それでも夜雨は諦めない。
夜雨の瞳は常に上を向いていた。
黒い雲の渦の真ん中で一つの星が輝いている。夜雨の透明な瞳はその光を航海に出る前から捉えていた。その星の光だけを頼りに、夜雨はこの無茶な航海に踏み切ったのだ。
世界はシンプルで、とても美しいものだ。
その思想だけが、今の夜雨を支えていた。夜雨は世界には必ず正解があると十七歳になった今でも信じているのだ。
なのに、何でこんなに生きることは難しいのだろう?
わからない。わからないことばっかりだ。それは俺がまだ子供だからなのだろうか?大人になればそれはわかるのことなのだろうか?もし仮にそうだったとしても、そんなのとても待つことはできない。
俺は今すぐその答えが知りたいんだ。
夜雨は嵐に向かって叫ぶ。思いっきり叫ぶ。喉が枯れるまで嵐に負けないくらい強い言葉を吐き続ける。雷の音と風の音で夜雨の声はかき消される。まるで夜雨を拒絶するように揺れ動く世界。
星はどこだ?
あの星がなければ、俺はもう前に進めない。
必死で空を探す夜雨。そんな夜雨に世界は手心を与えない。冷徹な拳を夜雨めがけて振り下ろす。
巨大な黒い海が盛り上がり、生き物のように天に向かって伸びていく。
その怪物は上空で方向を変え、夜雨の船に襲いかかる。勝負は一瞬だった。夜雨は怪物の腹の中に船と一緒に飲み込まれ、そのまま冷たい深海の底まで沈んでいった。
そこで場面が切り替わる。
気がつくと夜雨は深い闇の中にいた。そこは人がその人生の最初と最後に辿り着く最も原始的な空間で、本来なら夜雨がここを訪れるのは当分先の予定になるはずの場所だ。
そんな場所に夜雨は十七歳でたどり着いてしまった。それは、お世辞にも幸福だと表現することは絶対にできない出来事だ。
そうだ。どんなにあがいても、所詮俺はこの程度なんだ。
諦めかけた夜雨の心になぜか気持ちのいい風が吹く。とても懐かしい風の感触。この風はどこから吹いてくるのだろう?夜雨はそれを知りたいと心から思った。
『夜雨、夜雨』
風がそんな声を夜雨の元まで運んでくる。
『夜雨、起きて。もう朝ですよ』
そうか、もう朝なんだ。夜はいつの間にか終わっていた。もう目覚める時間なんだね。
ここは海の底じゃない。ここは暖かいベットの中。俺は安心できる場所で眠ってるだけのただの臆病者だ。その現実を夜雨は目覚めと共に思い出す。
夜雨はゆっくりと目を開く。
すると夜雨の目の前に白くて小さい顔がぼんやりと浮かび上がった。そこから二つの丸いピンク色の瞳がじっと夜雨の顔を覗き込んでいる。
その顔に夜雨は見覚えがあった。その少女の名前も知っている。
その子の名前は雨森花。
花は夜雨の顔を見ながら笑っている。