【起稿2026年10月19日記事】

前回は祖父哲が脳卒中を発病し、後遺障害を負いました...


雨宮哲が退院したのは、脳出血で倒れてから半年後の、秋も深まった頃だった。
病院の窓から眺めていた街路樹は、いつの間にか赤や黄色に色づいていた。

入院したばかりの頃には、もう二度と自分の足で歩けないのではないかと絶望したものだったが、長いリハビリを経て、哲は何とか自宅で暮らせるまでに回復していた。
もっとも、以前の身体に戻ったわけではない。
左半身には重い麻痺が残り、思うように手足を動かす事は出来無かった。歩く時には

、短下肢装具や杖が必要で、着替えや入浴にも工夫が要る。
かつて高校の体育教師としてグラウンドを駆け回り、退職後も学校事務嘱託員として忙しく働いていた頃の自分とは、まるで別人のようだった。

退院の日、玄関で出迎えた妻の久子は、いつもの優しい笑顔で言った。
「お帰りなさい、あなた。お疲れさま。」
「ああ…ただいま。」
哲は、妻の顔を見て、思わず目を伏せた。
帰る場所がある。  
自分を待っていてくれる人がいる。
それだけで、胸がいっぱいになった。

久子は、哲が入院している間、何度となく病院へ通ってくれた。
自分自身、乳がんの治療を続けていたにもかかわらず、夫の前では決して弱音を吐かなかった。
哲は、そんな妻の姿に甘えていたのかもしれない。
自分がリハビリを頑張れば、きっと元の暮らしに戻れる。  
自分が努力すれば、家族に迷惑をかけずに済む。
そして、少しでも早く闘病する妻を助けてやりたい。
そんな思いを胸に、哲は自宅でも自主リハビリを続けていた。
朝は決まった時間に起き、屋内で下肢の鍛練や上肢のストレッチをする。
そして、洗濯物を畳み、食器を片付け、出来る範囲で家事にも参加した。
「あなた、そんなに頑張らなくてもいいのよ。」
久子が心配そうに言うと、哲は決まって首を横に振った。
「いや、俺がやらなきゃ駄目なんだ。いつまでもお前に頼ってばかりじゃいられない。」
「でもね、無理をして身体を壊したら、もっと大変でしょう?」
「大丈夫だ。俺は元体育教師だぞ。」
そう言って笑う哲だったが、その笑顔には、以前のような自信はなかった。
身体が不自由になったことを、頭では理解していた。けれど、心のどこかでは、まだ認めたくなかったのだ。
人の手を借りなければ出来無いことがある。  
それを受け入れることは、哲にとって、自分の人生の一部を失うことのように思えた。

退院から2ヶ月ほどが過ぎた頃、久子の病状が急激に悪化した。
それまでは、治療を続けながらも家事をこなし、哲を気遣っていた久子だったが、ある日を境に、食事も十分に取れなくなった。病院で告げられたのは、あまりにも厳しい現実だった。
玲奈は、仕事や家のことをやりくりしながら、実家と病院を行き来した。
哲も何かしてやりたかったが、以前のように妻の手を握り、病院の廊下を歩き、医師の説明を聞きに行くことさえ、思うようにはできなかった。
自分がこんな身体でなければ。
その思いが、何度も胸を締めつけた。
久子の病状が良くないのも、自らの努力が足りないせいに思えた。

久子が力尽き、他界したのは、冬の初めの、冷たい雨が降る日だった。
最期まで、久子は哲の手を握っていた。
「あなた…」
「ここにいるよ、久子。」
「無理をしないでね。ちゃんと、人に頼るのよ...」
久子は微かに微笑んだ。
「あなたは昔から、頑張り過ぎる人だから…」
「久子、俺は…」
哲は、その先の言葉を続けられなかった。
妻の手から、少しずつ力が抜けていく。
その手を、哲はいつまでも握り続けた。
長年連れ添った妻を失った悲しみは、言葉では言い表せなかった。
家の中から、久子の声が消えた。  
台所から、包丁や食器の音が消えた。  
朝、目を覚ましても、隣にはもう誰もいなかった。
哲は年金で暮らす静かな日々の中に、深い空洞が出来たように感じていた。

久子が他界してから、哲は以前にも増して頑張るようになった。
じっとしていると、妻のいない寂しさが押し寄せてくる。だから、身体を動かしている方がよかった。
朝から家事を済ませ、午後には自主リハビリをする。調子の悪い日も、多少疲れていても、休もうとはしなかった。
ある日の午後、哲は居間の棚を整理しようとして、無理な姿勢で手を伸ばした。
身体が傾いた。
「あっ…!」
咄嗟に踏ん張ろうとしたが、麻痺した足は思うように動かなかった。哲は棚に肩をぶつけ床に崩れ落ちた。
幸い大きなけがはなかったものの、肩と腰を痛めてしまった。
玲奈に連絡すると、すぐに駆けつけてくれた。
「お父さん、何やってるの! どうして無理するのよ!」
「すまん…」
「一人でできないことは、私に言ってくれればいいでしょう?」
玲奈の声には怒りだけでなく、深い悲しみが混じっていた。
哲は何も言えなかった。
娘に心配をかけたくない。  

家族の負担にはなりたくない。
その思いが強いほど、助けを求めることができなくなっていた。
けれど、無理をして転び、けがをすれば、結局は家族にもっと心配をかけてしまう。
そんなことは、分かっていたはずだった。
その晩、哲は久子の写真の前に座り、長い間、何もせずにいた。
「久子…俺は、どうすればいいんだろうな。」
写真の中の久子は、いつものように、優しく笑っていた。
返事はなかった。
ただ、写真のそばに置かれた小さな花が、静かに揺れていた。
     
数日後、玲奈が龍を連れてやって来た。
10歳になった龍は、幼い頃よりもずいぶんしっかりしていた。
脳性麻痺による両下肢の痙性麻痺は変わらず、屋外では車椅子を使っていたが、学校では勉強にも熱心に取り組み、友達にも優しく接する子に成長していた。
そして、いつの頃からか、スポーツが大好きになっていた。
テレビでパラスポーツの大会を見たことがきっかけだった。
車椅子を巧みに操り、競技に打ち込む選手たちの姿に、龍は夢中になった。
「僕も、いつかパラアスリートになりたいんだ。」
そう言う龍の目は、きらきらと輝いていた。
哲は、そんな孫の姿を見る度に、胸の奥が温かくなった。
かつて、自分はこの子に何をしてやろうとしたのだろう。
幼い龍が転んだ公園の日を、哲は今でも忘れていなかった。
歩行訓練を嫌がる龍に、元体育教師だった自分は、つい厳しい言葉をぶつけた。
努力すればできる。  
頑張れば乗り越えられる。
自分が信じてきたことを、まだ5歳だった孫にも押しつけてしまったのだ。
龍は転んで、泣きそうな顔で自分を睨みつけた。
「お爺ちゃんのバカ!」
あの日の言葉は、今も哲の胸に刺さっていた。
だが、龍はもう、あの日のように祖父を避けたりはしなかった。
今日はあの日行った公園へ、久しぶりに哲と龍は揃って出掛けた。
「お爺ちゃん、肩、まだ痛いの?」
「ああ、少しな...」
「じゃあ、今日は僕が、お爺ちゃんに大事な話をしてあげる。」
龍は車椅子を哲のそばに寄せた。

「学校でね、先生から『援助要請スキル』っていうことを教わったんだ。」
「援助要請…?」
「うん。困ったときに、誰かに助けてもらうための方法だよ。」
哲は、孫の顔を見つめた。
「助けてもらう方法?」
「そう。自分が何に困っているのか、どうして困っているのか、どうしてほしいのか。それを相手にちゃんと伝えるんだよ。」
龍は、指を一本ずつ立てながら説明した。
「まずね、自分の身体の事を、自分でよく知るんだ。
僕だったら、足がどんなふうに動くのか、何が出来て
、何が難しいのかを知っておくの。」
「なるほど…」
「それから、毎日の生活で、うまくいった事と、うまくいかなかった事を考えるんだよ。どうして失敗したのかなって。」
龍は少し考えてから、続けた。
「自分だけで分からなかったら、先生に聞いたり、誰かに相談したりするんだ。」
「それで?」
「最後に、相手にお願いするんだよ。でもね、相手が忙しくないかも考えて、何をどうしてほしいのか、分かりやすく伝えるんだ。」
哲は、黙って聞いていた。
龍の言葉は、思いのほか深く、哲の心に響いた。
「例えばね…」
龍は、車椅子のブレーキを確認してから言った。
「僕が高い所にある本を取りたいとき、『本を取って』って言うだけじゃなくて、『棚の上から二段目にある青い本を取ってくれる?』って言うんだよ。」
「そうか。何をしてほしいのか、具体的に伝えるのが大切なんだな?」
「うん。それから、僕にも出来る事は自分でする。全部を人にやってもらうんじゃないんだよ。」
哲は、思わず息をのんだ。
それは、まさに自分が探していた答えだった。

自分は、リハビリを頑張ることばかり考えていた。
身体を動かす努力をすれば、いつか不自由さを克服できる。人に頼らずに暮らせるようになる。
けれど現実は違った。
どれほど努力しても、以前の身体に戻るのは難しい。  

出来無い事を、出来るようになるまで頑張り続けるだけでは、生活を成り立たせる事は出来無い。
必要なのは、出来る事と難しい事を見極め

、工夫し、必要な時には人の力を借りる事だった。
そして、その為には、自分の困り事を相手に伝えなければならない。
「龍…」
哲は、ゆっくりと口を開いた。
「お前は凄いな。」
「えっ?」
「お爺ちゃんは、そんな大事なことに気づくのに、ずいぶんと時間がかかってしまったよ。」
龍は、照れくさそうに笑った。
「僕だって、先生に教えてもらったんだよ」
「そうか…。人から教わる事も、大切なんだな。」
「うん!」
その明るい返事に、哲は思わず笑った。
龍が生まれつきの障害と向き合いながら、学校で一つ一つ学んできた事。
自分が突然の病気で障害を負い、失敗し、悩み、苦しみながら学んできた事。
二人の歩んだ道は違う。
けれど今、同じ場所に辿り着こうとしていた。
障害がある事と、自分らしく生きられない事は、同じではない。
助けを借りる事と、自分の力で生きる事も、矛盾しないのだ。

それから、哲は少しずつ暮らし方を変えていった。
まず、自分の身体の状態をよく観察する事にした。
どんな動作なら安全に出来るのか。  
どんな時にふらつくのか。  どの程度疲れたら休む必要があるのか。
リハビリの記録をつけるようにして、毎日の生活でうまくいったこと、失敗したことを書き留めた。
そして、失敗したときには
、ただ自分を責めるのではなく、原因を考えるようにした。
高い棚の物を取ろうとして転びかけたなら、棚の配置を変えればいい。  
疲れて家事が続かなくなったなら、作業を分けて、途中で休めばいい。  
片手では難しい作業なら、道具を工夫したり、家族に頼んだりすればいい。
訪問リハビリの理学療法士にも相談し、自宅での動作について助言を受けた。
以前の哲なら、そんな事を人に聞くのは恥ずかしいと思っただろう。
しかし今は違った。
分からない事を相談するのは、弱さではない。  
自分の暮らしを守る為に必要な事なのだ。


ある日、玲奈が買い物袋を持って来たとき、哲は自分から声をかけた。
「玲奈、悪いが、冷蔵庫に入れるのを手伝ってくれないか?」
「えっ? いいわよ。どうしたの?」
「冷蔵庫の上段に重い物を入れようとすると、身体がふらつくんだ。だから、上の段に入れる重い物だけ入れてくれないか。下の段に入れる物や軽い物は俺がしまうから」
玲奈は、一瞬、驚いたような顔をした。
それから、にっこりと笑って言った。
「分かったわ、お父さん。そういう事なら、いつでも言ってね。」
「ああ。ありがとう。」
たったそれだけのやり取りだった。
けれど、哲にとっては大きな一歩だった。
助けを求める事は、相手に負担を押しつける事ではない。
相手が何をすればよいのか分かるように伝えれば、助ける側も動きやすくなる。そして、自分に出来る事は自分でする。そうすれば、お互いに無理のない関係を築く事ができる。
玲奈もまた、父の変化を感じていた。
以前の父は、何でも自分でやろうとして、失敗すると黙り込んでしまう事があった。
今の父は、困った時には相談してくれる。
出来無い事を隠そうとせず、出来る事を一緒に考えようとしてくれる。
それは、娘にとっても嬉しい事だった。

春になった。
ある日曜日、哲と龍は、一緒にいつもの公園へ出かけた。

チャッピー作画

桜が満開だった。
風が吹くたびに花びらが舞い、遊歩道の端には、淡い桃色の絨毯ができていた。
公園の広場では、子供達が
ボールを追いかけていた。
哲は、龍の車椅子の脇に立って、その様子を眺めていた。
かつて高校のグラウンドで
、何人もの生徒に声をかけてきた日々が、遠い記憶のようによみがえった。
走れ。  
諦めるな。  
最後まで頑張れ。
体育教師だった頃の自分は、そうした言葉を何度も口にしてきた。

努力することは大切だ。  

今でも、その考えは変わらない。

しかし、努力の形は一つではない。
自分の身体と向き合う事も努力だ。  
失敗の原因を考える事も努力だ。  
助けを求める事も、工夫をする事も、立派な努力なのだ。
そして、何よりも大切なのは、努力を続ける事だけを目的にしない事だった。
自分が何をしたいのか? どんな暮らしを送りたいのか? 
そのために何を工夫し、誰の力を借りればよいのか?
それを考える事が、生きていくという事なのかもしれない。

「お爺ちゃん!」
龍の声に哲は我に返った。
「どうした?」
「見て!あそこで車椅子バスケットボールの体験会をやってるんだって!」
龍は、広場の向こうを指さした。
そこには、数台の競技用車椅子と、ボールを持った人たちがいた。スタッフが参加者を案内している。
「僕、やってみたい!」
龍の顔は、期待で輝いていた。
哲は、かつての自分なら、真っ先に「よし頑張れ!」と言っただろうと思った。
しかし、今はまず、龍の気持ちを確かめた。
「そうか...やってみたいんだな?」
「うん!」
「よし。それじゃあ、どうすれば参加できるのか、一緒に聞いてみような。」
龍は嬉しそうにうなずき、車椅子を漕ぎ出した。
二人はスタッフのところへ向かった。
龍は、自分の足の状態や、屋外は車椅子を使っていることを説明した。
そして、体験会に参加できるかどうか、どんな準備が必要なのかを尋ねた。
スタッフは親切に説明してくれた。
安全に参加できるよう、車椅子の扱い方や競技の基本を教えてくれるという。
龍は振り返り哲を見て「お爺ちゃん、僕、頑張るよ!」と言った。
哲は、孫の肩にそっと手を置いた。
「そうだな。でも、無理はするなよ。分からない事や困った事があったら、遠慮しないで聞くんだぞ」
「うん。僕、ちゃんと聞くよ!」
その返事を聞いて、哲は微笑んだ。
龍が初めて歩行訓練を嫌がった日のことを思い出す。
あの頃の自分は、龍が転ばないようにする事ばかり考えていた。歩けるようになる事こそが、孫の幸せにつながるのだと信じていた。
けれど、龍の幸せは、歩けるようになる事だけではなかった。
車椅子で走ること。  
仲間達とスポーツを楽しむ事。  
将来の夢に向かって挑戦する事。
その一つ一つが、龍の人生を豊かにしていくのだ。
哲は、ようやくそれを理解できた気がした。

体験会を終えた龍は、頬を赤くして戻ってきた。
「お爺ちゃん、楽しかったよ!」
「そうか。良かったな。」
「僕、もっと練習したいな。いつか、本物の大会に出たい!」
「うん。いい夢だな。」
哲は、心からそう思った。
「でもね、お爺ちゃん。」
龍は、ふと真面目な顔になった。
「僕、まだ出来無い事もいっぱいあるんだ。車椅子を速く動かすのも難しいし、ボールをうまく投げられない事もある...」
「そうだな。」
「でも、出来無い事があっても、どうしたら出来るようになるか考えればいいんだよね?
自分だけじゃ分からないときは、先生やコーチに聞けばいいんだよね?」
哲は、ゆっくりとうなずいた。
「ああ。そのとおりだ。」
龍は、にっこり笑った。
「お爺ちゃんも、そうしてる?」
哲は一瞬言葉に詰まった。
しかし、正直に答えた。
「...そうだな。まだまだ勉強中だよ。お爺ちゃんにも、出来無い事は沢山ある。でも、出来無い事を隠さずに
、どうすればいいか考えるように気を付けている」
「そっか!」
龍は嬉しそうに、元気な声を上げた。
「じゃあ、僕たち、同じだね!」
同じ。
その言葉が、哲の胸に深く染み込んだ。
障害の原因も、身体の状態も、歩んできた人生も勿論違う。
それでも、二人は同じだった。
自分の身体と向き合い、出来る事を見つけ、出来無い事には工夫をする。そして
、必要な時には人の力を借りる。
それは、障害のある人だけに必要な事ではないのかもしれない。
人は誰でも、一人では生きていけない。
誰かに助けられ、誰かを助けながら、少しずつ人生を歩んでいくのだ。


帰り道、龍は車椅子を漕ぎながら、哲の隣を進んでいた。
桜の花びらが、二人の肩に舞い落ちた。
「お爺ちゃん。」
「何だ、龍。」
「お婆ちゃんも、僕たちのこと、見てるかな?」
哲は、空を見上げた。
久子が亡くなってから、もう何度も、こんなふうに空を見上げていた。
妻がいない寂しさは、今も消えない。
ふとした瞬間に、久子の声が聞こえるような気がする時がある。
台所から顔を出して、「あなた、お茶を入れましょうね。」と言ってくれるような気がする。
けれど、振り返っても、そこにはもう誰もいない。
それでも、久子と過ごした時間は、消えてしまったわけではなかった。
妻が残してくれた言葉。  家族を思いやる心。  
無理をせず、人に頼ることの大切さ。
それらは、今も哲の中に生きていた。
「そうだな……。きっと、見てくれているよ。」
哲は、穏やかに答えた。

「お婆ちゃん、僕がパラアスリートになったら、喜んでくれるかな?」
「ああ。きっと、誰よりも喜んでくれるさ。」
「じゃあ、僕、頑張るね!」
「うん。でもな、龍。」
「なあに?」
「頑張るっていうのは、何でも一人でやることじゃないんだぞ。疲れたら休む。困ったら相談する。出来無い事があったら、誰かと一緒に考える。それも大切な頑張り方なんだ。」
龍は、少し考えてから、元気よく答えた。
「分かった!お爺ちゃんも、ちゃんと人に頼ってね!」
「ハハハ…。そうだな。お前に心配をかけないようにしないとな。」
「違うよ、お爺ちゃん。」
龍は、まっすぐに哲を見つめた。
「心配をかけない事より、困った時にちゃんと教えてくれる方がいいんだよ。そうしたら、僕も何をすればいいか分かるから」
哲は、はっとした。
それは、妻久子や、娘玲奈の自分への願い、想いではなかったか?
自分の困り事を伝える事。  相手に分かるようにお願いする事。  
そして、相手の力を借りながら、自分の人生を歩んでいく事。
10歳の孫が、改めて六十五歳の祖父に教えてくれたのだ...
「ありがとう、龍。」
哲は、孫の手を握った。
「お爺ちゃん、これからも勉強するよ。お前に負けないようにな。」
「うん! 僕も頑張る!」
二人は顔を見合わせて笑った。
春の風が吹いた。
満開の桜から、花びらがいくつも舞い上がり、青い空へと流れていった。


その夜、哲は久子の写真の前に座った。
「久子…」
哲は、静かに語りかけた。
「俺は、まだまだだな。お前がいなくなってから、何でも一人で頑張ろうとしていた。寂しさを紛らわせるために、身体まで痛めてしまった。」
少し間を置いて、哲は続けた。
「でもな、龍に教えてもらったんだ。助けてもらいたいことを、ちゃんと言葉にして伝えるんだってな。」
写真の中の久子は、何も答えない。
けれど、哲には、妻が微笑んでいるように見えた。
「俺は、これからもリハビリを続けるよ。出来る事は自分でする。でも、出来無い事は、ちゃんと人に頼る。それでいいんだよな?」
哲は、写真のそばに置かれた花を見つめた。
「龍も頑張っている。いつか、あの子が夢をかなえる日が来たら、お前にも報告するよ...」
窓の外から、夜風がそっと吹き込んできた。
哲は、ゆっくりと立ち上がった。
まだ思うように動けない。  まだ出来無い事が沢山ある。  
妻のいない寂しさも、これから先、何度となく胸を締めつけるだろう。
それでも、明日もまた朝は来る。
出来る事を一つずつ。  
困った時には、言葉にして伝える。  
人の力を借りながら、自分らしく生きていく。
それが、今の自分に出来る事だった。
哲は、久子の写真に向かって、静かに微笑んだ。
「おやすみ、久子。」
     
翌朝...
かかってきた電話を取ると龍だった。
「お爺ちゃん、おはよう!」
「おう、龍。おはよう。」
「今日ね、学校でパラスポーツのことを先生に相談するんだ。もっと練習できる場所がないか、聞いてみるんだよ。」
「そうか。いい考えだな。」
「うん! お爺ちゃんも、今日リハビリ頑張ってね!」
「ああ。お前もな。」
電話を切った哲は、しばらく受話器を見つめていた。
そして、ふと思った。
自分は、龍を励ましているつもりでいた。  
けれど、本当は、龍に何度も励まされていたのだ。
孫の存在が、自分を支えてくれている。
そう思うと、胸の奥に、温かなものが広がった。
哲は、リハビリの予定を書いた手帳を開いた。
今日は、歩行練習と、麻痺した手の訓練をする。
以前の自分なら、出来無い事に目を向け、焦っていたかもしれない。
けれど今は違う。
昨日より一歩でも進めたら
それでいい。  
上手くいかない時には、原因を考えればいい。  
一人で難しければ、誰かに相談すればいい。
そうして、一日一日を積み重ねていこう。
哲は手帳を閉じた。
そして、杖を手に取った。
窓の外には、明るい朝の光が差し込んでいた。
六十五歳の祖父と、10歳の孫。
生まれつき障害のある龍と
、人生の途中で障害を負った哲。
二人の歩む道は、これからも平坦ではないだろう。
それでも、二人には、それぞれの夢がある。  
支えてくれる家族がいる。  困ったときに、助けを求めることを教えてくれた人がいる。
そして何より、二人はもう知っていた。
助けを借りることは、負けることではない。
できないことがあっても、人生の可能性まで失われるわけではない。
人は、誰かと支え合いながら、自分の人生を生きていく事が出来るのだ。
哲は、玄関の鏡に映った自分の姿を見た。
そこにいたのは、かつてのように自由に走り回る事の出来無い男だった。
けれど、もう、自分を情けないとは思わなかった。
この身体で、これからを生きていく。
それが自分の人生なのだ。
「よし…行くか。」
哲は、小さく呟いた。
そして、ゆっくりと、一歩を踏み出した。
その一歩は、かつてグラウンドを駆け抜けた青年の一歩とは違っていた。
けれど、確かに、明日へと向かう一歩だった。
...僕とお爺ちゃん。
龍がいつか大人になったとき、今日の日々を思い出すだろう。
自分を励ましてくれた祖父の事。  
自分が励ました祖父の事。  そして、二人で見上げた、桜の空の事を。
その記憶はきっと、龍が人生の壁にぶつかった時、そっと背中を押してくれるに違いない。
人に頼る事を恐れず、自分の可能性を信じる事。
 それこそが、祖父と孫が、ともに学んだ大切な事だった。
春の空は、優しい春の日差しに満ちていた...

...完

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この物語の祖父哲は、私自身がモデルで、妻久子は、私の妻がモデルですが、私には、まだ孫はいません。
そこで、孫の龍は、先般投稿した自身の創作物語に登場する男の子をイメージしました...




...最後になりましたが、
「愛知・名古屋2026アジアパラ競技大会」が昨日開幕しました。
選手の皆様のご活躍を応援致しています🎌

「愛知・名古屋2026アジアパラ競技大会」
公式サイト👇