【起稿2026年9月22日記事】
※この小説は、フォローしている、はなさんがアップされた国営昭和記念公園(東京都立川市)のコスモス畑の光景写真を拝見して、昨年他界した妻への想いを募らせて私が創作したSFです。
使用したコスモス畑と扉の画像は、
photoAC(www.photo-ac.com)より引用し、私と妻の実写写真をナノバナナ2により合成加工したもので、現実の画像では有りません。
創作SF小説※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
今年も、コスモスの季節がやってきた...
武蔵野の空は高く、薄い雲が秋の光を透かしていた。
私は六十六歳になった。
この武蔵野に生まれ、この武蔵野で育ち、六十六年の歳月を、ほとんどこの土地から離れる事なく生きてきた。
かつては大手資材メーカーに勤め、家庭を築き、二人の娘を育てた。還暦を迎えた頃には、娘達も立派な社会人になっていた。
後は、妻と二人で、ゆっくりと豊かに余生を過ごすだけだった。
...そう思っていた。
ところが、一昨年の春、私は脳卒中で倒れた。
命は助かったが、身体に酷い障害が残った。長い入院生活の末、秋に自宅へ戻ったものの、以前のように自由に動く事はできなくなっていた。
それでも頑張って仕事を続けたが、翌年の春、私は退職した。
そして、その年の初秋、妻が逝った...
妻は五年前に見つかったステージ4のがんの闘病をしていたが、昨年の夏、急激に悪化したのだ。
妻は、岐阜県の東濃に生まれ、長野県飯田市で育った。
高原に吹く風のような人だった。爽やかで、優しくて、そばにいるだけで、こちらの心まで澄んでいくような女性だった。
私は、妻を思わせるピンクや白のコスモスが好きだった。
妻もまた、信州の野原によく咲いているコスモスが好きだった。
退職した昨年の春、私たちは約束した。
「秋になったら、二人でコスモス畑を見に行こう。俺、杖歩行だけど頑張って歩くからさ...」
妻は、いつものように微笑んだ。
「うん。楽しみね。」
...しかし、その約束を果たすことなく、妻は逝ってしまった。
コスモスが花盛りを迎える、ほんの少し前のことだった...
自宅近くの公園のコスモスは、今年いつもより早めに咲き始めた...
杖を突きながら、私は花畑の脇をゆっくりと進んだ。
風が吹くたび、細い茎が揺れた。
ピンク。白。淡い紅色。
その向こうに、武蔵野の秋の空が広がっていた。
妻がいたら、きっと喜んだだろう。
「ほら、あそこ。あの白いの、きれいね。」
そんな声が、今にも聞こえてきそうだった。
コスモス畑の扉
花畑の真ん中に、見慣れないものがあった。
玄関扉だった。
周囲には何も無い。
壁も、柱も、建物も無い。
ただ、花畑の中央に、家の玄関扉だけが、ぽつんと立っていた。
古い木製の扉だった。
私が長年暮らしてきた家の玄関扉に、どこか似ている気がした。
扉の上には、小さな真鍮の表札がついていた。
そこには、見覚えのある文字が刻まれていた。
「ただいま...」
私は思わず、息をのんだ。
誰が、こんなものを?
公園の催し物だろうか。
それとも、現代美術の作品か何かだろうか。
しかし、扉の周囲には説明板もなく、作者の名前もなかった。
不思議なことに、花畑の中にいる人々は、誰もそれを気に留めていないようだった。
子供たちは走り回り、若い夫婦は写真を撮り、老夫婦はベンチで休んでいる。
誰も、扉を見ていない。
私だけが、その扉に気付いているようだった。
私は、しばらく扉を見つめていた。
そして、ふと思った。
あの扉を開けたら、どこへ行けるのだろう...
もしかしたら。
もしかしたら、あの向こうから、妻が出てきてくれるのではないだろうか?
天から舞い降りて。
いつもの笑顔で。
「お待たせ」そう言って。
私は、自分の考えに苦笑した。
六十六歳にもなって、何を馬鹿な事を...
けれども、胸の奥に、消えかけた小さな灯火のようなものがともっていた。
その夜、私は不思議な夢を見た。
夢の中では、私はまだ若かった。
五十代の半ば。
妻も、まだ元気だった。
私たちは、秋の信州を旅していた。
山の稜線は紫色に霞み、稲刈りの終わった田んぼの向こうに、見事なコスモス畑があった。
妻は、白いブラウスの上にピンクのカーディガンを着ていた。
風に髪を揺らしながら、花畑の中を歩いていた。
「ねえ、あなた。」
妻が振り返った。
信州のコスモス畑と妻

「別の世界?」
「うん。私たちが、違う人生を生きている世界...」
私は笑った。
「そんなもの、ある訳無いだろう...」
妻は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「そうね。でも、あったらいいな。」
そして、妻は花畑の向こうを指さした。
そこには、玄関扉が立っていた。
木製の、古い玄関扉。
私が昨日、公園で見たものと、まったく同じ扉だった。
「向こうに行けば、まだ間に合うかもしれないわね...」
妻が言った。
私は、その意味を尋ねようとした。
しかし、妻の姿は、風に揺れるコスモスの向こうへ、ゆっくりと遠ざかっていった。
翌日、私は再び公園へ向かった。
昨日と同じ道。
昨日と同じ秋の空。
昨日と同じコスモス畑。
そして、まだ扉はそこにあった。
しかし今度は、扉の前に小さな男の子が立っていた。
十歳くらいだろうか。
白いシャツに、紺色の半ズボン。
扉と男の子

男の子は、私を見ると、驚いたように目を見開いて叫んだ。
「おじいちゃん!」
私は、周囲を見回した。
誰もいない。
「…私のことかい?」
「うん!」
男の子は、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「ずっと待ってたんだよ。」
「誰を?」
「おじいちゃんを。」
私は困惑した。
男の子は、私の顔をじっと見つめた。
「ねえ、おじいちゃん。おばあちゃんは?」
その言葉に、私は胸を突かれた。
「…おばあちゃんは、もういないんだよ。」
男の子は、悲しそうに目を伏せた。
「そうなんだ…」
そして、しばらく考え込むと、顔を上げた。
「でも、こっちのおばあちゃんは、まだいるよ。」
私は、息を止めた。
「こっち?」
男の子は、扉を指さした。
「うん。こっちの世界。」
風が吹いた。
コスモスが一斉に揺れた。
私は男の子の顔を見た。
その目。
その眉。
その笑い方。
どこかで見たことがある。
いや、知っている。
この子は...
「…君は、誰だい?」
男の子は、少し照れくさそうに笑った。
「ぼく? ぼくは、あなたの孫だよ」
私は言葉を失った。
娘達にまだ子供はいない。
しかし、男の子は、私の事を知っていた。
私の家のことも。
私の好きな花のことも。
そして妻のことも。
「おばあちゃんね、毎年この花を見に来るんだよ。」
男の子は言った。
「ぼくと一緒に」
私は、扉を見た。
木の表面に、細い亀裂が走っていた。
その隙間から、淡い光が漏れていた。
「おじいちゃんも、来る?」
男の子が手を差し出した。
私は、扉の前にいた。
畑の地面は柔らかく、片麻痺の私には不安定だった。
男の子が、私の手を握ってくれていた。
小さな手だった。
温かかった。
私は、扉の取っ手に手を伸ばした。
その瞬間、頭の中に、いくつもの光景が浮かんだ。
まだ若かった頃の私。
妻と出会った日の事。
娘達が生まれた日の事。
家族で過ごした、何気ない夕食。
妻ががんと診断された日。
病室で、妻の手を握っていた夜。
そして、妻が旅立った夜明けの病室。
どれも私の人生だった。
ひとつも、やり直すことのできない時間だった。
しかし、扉の向こうには、もうひとつの人生があるのかもしれない。
妻がまだ生きている世界。
私が、脳卒中を起こさなかった世界。
昨年の秋、二人でコスモス畑を訪れた世界。
そんな世界が、本当にあるのだろうか。
私は、取っ手を握った。
冷たい真鍮の感触。
そして、扉を開けた。
扉を開けたら...

しかし、何かが違っている気がした。
空は、今よりも少しだけ青かった。
木々の緑は、少しだけ濃かった。
遠くに見える街並みは、私が知っている武蔵野と、どこか違っていた。
そして、花畑の向こうに、ひとりの女性が立っていた。
白いブラウス。
ピンクのカーディガン。
風に揺れる髪。
私は、息をのんだ。
「…K子?」
女性が振り返った。
妻だった。
五十歳位。
がんを患う前の、あの頃の妻だった。
頬には、健康的な赤みがあった。
瞳は澄んでいた。
そして、あの懐かしい、優しい笑顔。
「あなた...」
妻が言った。
「遅かったわね。」
私は、声を出せなかった。
妻は、ゆっくりと近づいてきた。
「どうしたの?」
私は、震える唇で言った。
「…本当に、君なのか?」
妻は、首をかしげた。
「何を言っているの?」
そして、私の手を取った。
温かかった。
生きている人間の手だった。
妻と私

妻が言った。
「コスモス畑、見に行くんでしょう?」
私は、泣いた。
六十六年の人生で、今までこんなにも泣いた事は無かった。
妻は私の涙を指で拭った。
「もう、泣かないで...」
そして、微笑んだ。
私は妻の顔を見つめた。
「…君は、病気じゃないのか?」
妻は、少し驚いたように私を見た。
「病気?」
そして、笑った。
「私は元気よ。」
私は妻の手を握りしめた。
もう二度と離したくなかった。
そのとき、遠くから声が聞こえた。
「おじいちゃん!」
振り返ると、男の子が扉の向こうに立っていた。
「もう、帰らなきゃ!」
私は妻を見た。
妻は何も言わなかった。
ただ優しく微笑んでいた。
「…帰らなきゃ、いけないのか?」
私は男の子に尋ねた。
男の子はうなずいた。
「うん。おじいちゃんは、あっちの世界の人だから。」
私は妻の手を握りしめた。
妻は、その手をそっと握り返した。
「大丈夫よ。」
妻が言った。
「また会えるから...」
私は、首を振った。
「嫌だ。もう、君を失いたくない」
妻は、少しだけ悲しそうに笑った。
「あなた。」
そして、私の頬にそっと口づけた。
「あなたが生きている世界にも、私の好きなコスモスが咲いているでしょう?」
私は何も言えなかった。
「私がいなくても、あなたはあの花を見て」
妻は私の手を離した。
「そして、私のことを思い出して」
風が吹いた。
白い花びらが、空へ舞い上がった。
私は妻の姿を見つめた。
その姿が、少しずつ、光の中に溶けていった。
「…またね。」
妻の声が聞こえた。
私は扉をくぐった。
目を開けると、私は公園のベンチに座っていた。
夕暮れだった。
コスモス畑は、薄紫色の影に包まれていた。
周囲には誰もいなかった。
扉は消え、男の子も、いなかった。
私は自分の手を見た。
そこには何もなかった。
ただ右手の掌に、淡いピンクの花びらが一枚載っていた。
私は、それをそっと握りしめた。
夕暮れのコスモス畑

それとも...
どこかに、本当に、もうひとつの世界があるのだろうか。
妻が、今も元気に暮らしている世界。
私が、障害を負うことなく、妻と手をつないで歩いている世界。
そして、私たちの孫が、二人の間を駆け回っている世界。
私は空を見上げた。
秋の雲が、ゆっくりと流れていた。
その向こうに、妻がいるのだろうか。
それとも、別の世界で、今も笑っているのだろうか。
答えはわからなかった。
ただ、私は、もう一度コスモス畑を見た。
ピンクの花が、夕暮れの風に揺れていた。
白い花が、静かに咲いていた。
私は、微笑んだ。
「…また、来るよ。」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
けれども、そのとき。
花畑の向こうから、風に乗って、懐かしい声が聞こえた気がした。
「うん。待ってるね。」
私は、ゆっくりと杖を突き歩き始めた。
武蔵野の秋は、静かに暮れていった。
そして、コスモスの花びらが一枚、私の肩に舞い降りた。
まるで、遠い世界から届いた、小さな手紙のように...