【起稿2026年9月11日記事】

第三話👇


年が明けた。
忍(信夫)にも、時折雪がちらついたが、里に積もる事は稀であった。 ただ、冷たい風が、始終山から吹き下ろし、枯れた田畑を渡っていた。
北西に連なる山々を望むと、雪化粧をして灰色の空の下に煙っていた。

小手姫は、毎朝のように戸口に立ち、その山々を眺めていた。

けれども、あの山の向こうには蜂子がいる...
そう思うだけで、小手姫の胸の奥に小さな灯がともった。
「春になれば…」
小手姫は、そう呟いた。
「春になれば、北へ参りましょう。」

しかし、冬の間にも、小手姫はただ待っていたわけではなかった。
ある日、村の家の裏手にあった大きな木を見て、姫は足を止めた。
「これは…桑の木ですね。」
都のような手入れをされた桑の木では無かった。
「おう。よくご存じで。夏に甘い実が成りまする。」

...村の女が笑った。

小手姫は言った。

「桑の葉は、蚕が好むのを存じていますか?」

「蚕…?」
「ええ。もしお望みなら、育て方をお教えいたしましょう...」
小手姫は、久しぶりに穏やかな笑顔を見せた。
それからの日々、姫は里の女たちに養蚕を教えた。
蚕を育て、桑の葉を与え、繭を取る。 繭から糸を取り、糸を紡ぎ、機に掛ける。
都では当たり前だった技も、この土地では知らぬ者が多かった。

小手姫が機に向かうと、女たちはその周りに集まった。
「姫様、どうして糸がこんなに細くなるのでございますか?」
「急いではいけません。糸の声を聞くのです。」
「糸の声…?」
「ええ。強く引けば切れます。弱ければ布になりません。ちょうど、人の心と同じですよ。」
女たちは顔を見合わせ、笑った。
小手姫も笑った。
久しぶりだった。
心から笑ったのは、いつ以来だっただろう。
やがて、里の女たちは少しずつ養蚕を覚え、機織りを覚えていった。
桑の木を植える家が増えた。 蚕を飼う家が増えた。 そして、里には以前より丈夫で美しい布が織られるようになった。

人々は小手姫を慕うようになった。
「姫様のおかげでございます。」
「私が皆に教えたのは、昔から都に伝わっている事だけです。」
「それでも、私どもには宝でございます。」
小手姫は、その言葉を聞いて嬉しかった。

しかし、心の中には、いつも一人の少年がいた。
蜂子。
ある日、小手姫は一人で機に向かった。
そして、いつもとは違う糸を取り出した。
淡い色の糸だった。
一日。 二日。 三日。
小手姫は、少しずつ布を織っていった。
「まあ!暖かい色合いでございますねぇ...何をお作りなのですか?」
村の女が尋ねた。
小手姫は、少しだけ恥ずかしそうに答えた。
「息子の衣です。」
「御子様が、この地におられるのでございますか?」
小手姫は首を横に振った。
「いいえ。」
そして、北西の山々を見た。
「もっと遠くにおります。」
それ以上は言わなかった。
まだ幼かった蜂子の姿を思い浮かべながら、一針一針
、糸を通した。

あの子は、今、どれほど大きくなっているのだろう。
凍えてはいないだろうか。
食べる物は十分にあるのだろうか。
誰か、優しい人に出会えただろうか。
母の事を覚えているだろうか。
そして…
この母を恨んでいないだろうか。
小手姫は、そっと目を伏せた。
「蜂子…。」
機の音だけが、静かな家の中に響いた。
やがて、衣が仕上がった。
決して華美なものではなかった。
だが、温かく、丈夫で、細やかな心遣いが込められていた。
小手姫は完成した衣を両手で抱いた。
「これなら…。」
その顔に、母の笑顔が戻った。
「蜂子が着ても、寒くないでしょう。」

しかし、その頃から小手姫の身体には異変が現れ始めた。
咳が出るようになった。
それは日に日に酷くなった。
熱も出た。
従者は心配して休むように言った。
「姫様、どうかもう機から離れてください。」
「大丈夫です。」
「しかし…。」
「大丈夫ですよ。」
小手姫は笑った。
だが、その笑顔には以前の力がなかった。

それでも姫は、北西の山を見た。
春になれば、蜂子を探しに行く。
その思いだけが、姫を支えていた。
やがて春の気配が近づき、里の陽当たりの良い原に、草が芽吹き始めた。

しかし...小手姫の身体は、春を迎えることができなかった。
病は、静かに、しかし確実に、姫が生きる力を奪っていた。
ある夕暮れ。
小手姫は、従者を呼んだ。
「これを。」
差し出したのは、あの衣だった。
「蜂子様にお届けするのでございますね。」
「ええ。」
「私が、必ずお届けいたします。」
小手姫は、衣をもう一度胸に抱いた。
「どうか…。」
声がかすれた。
「どうか、きっと渡してくださいね...」
「はい。」
「そして…。」
小手姫は少し迷った。
「母は皇子をずっと待っていた...と。」
...そこで言葉が途切れた。
涙が一筋、頬を伝った。
「いいえ…。」
小手姫は首を横に振った。
「それは言わなくてよいでしょう。」
従者は黙って衣を受け取った。
小手姫は、しばらくそれを見つめていた。
「蜂子は生きている。」
姫は微笑んだ。
「それだけで、私は幸せなのでした...。」

翌朝。
小手姫は、あの小高い山へ行きたいと言った。
従者は止めた。
「姫様、お身体に障りましょう。」
「最後に...。」
小手姫は北西を見た。
「もう一度だけ、見ておきたいのです。」
従者に支えられながら、姫は山を登った。
風が吹いていた。
里にはもう雪はない。
春の草が、ところどころに顔を出している。
しかし、北西の山々には、未だ白い雪が残っていた。
小手姫は、その山々をじっと見つめた。
「あの向こうに…。」
声が震えた。
「蜂子がいるのですね。」
返事はない。
ただ、遠い山々から風が吹いてきた。
小手姫は両手を合わせた。
「母は、来ましたよ。」
涙がこぼれた。
「都からあなたを迎えに来ました。」
しばらくして、姫は静かに続けた。
「でも…。」
少し笑った。
「母は、もう歩けないようです。」

従者が顔を伏せた。
小手姫は、その肩に手を置いた。
「泣いてはいけません。」
「姫様…。」
「あなたには、まだ大切な務めがあります。」
姫は、預けた衣のことを思った。
「蜂子に届けてください。」
「必ず。」
「そして…。」
小手姫は北西の山を見た。
「どうか、あの子が幸せでありますように。」
それが、小手姫の最後の願いだった。

...その夜。
病は急に重くなった。
従者は、姫の傍らに座っていた。
小手姫は、何度か目を開け譫言のように言った。
「蜂子は…。」
「ご無事でございます。」
「そう…。」
小手姫は微笑んだ。
「それなら…よかった。」
しばらくして、また目を開いた。
「母を…。」
その声は、ほとんど聞き取れなかった。
従者が身を寄せる。
「何でございましょう。」
「母を…恨まないで…。」
...それが最後だった。

夜明け前。
小手姫は、静かに息を引き取った。

従者は、声を殺して忍び泣いた...
都を出てから、長い長い旅だった。
母は、我が子のいる大地まで辿り着いた。
...だがついに我が子の顔を見ることはできなかった。

小手姫の亡骸は、かつて姫が北の山々を見晴らした小高い山に葬られた。
その場所からは、北西の山
々がよく見えた。
忍の民は、姫のために墓を守った。
養蚕を教えてくれた女。
機織りを教えてくれた女。
自分たちの暮らしに、新しい恵みをもたらしてくれた女。
そして、最後まで北西の山を見つめ続けた女。
やがて、人々はその墓に手を合わせるようになった。
「おて姫様。」
そう呼び掛けると、花を供え、一心に祈った。
いつしか姫は、女神として祀られ、山は「女神山」と呼ばれるようになった。
しかし、その女神が、ただ一人の我が子を求めて、遥かな都からこの地まで歩いて来た母であったこと知っている民はいなかった。

その頃...
羽黒山では、弘海が山道を一人歩いていた。
雪解け水が谷を流れている。
鳥の声がする。
弘海は立ち止まり、東の空を見た。
なぜだろう。
その日は、胸の奥が妙にざわついた。
「…母上。」
ふと、その名が口からこぼれた。
弘海は目を閉じた。
幼い頃の記憶が蘇った。
母の膝。
母の手。
母の声。
そして、あの夜。
血に染まった宮から逃げた自分を、最後まで見送っていた母の姿。
「……。」

弘海は目を開いた。
もう戻ることはできない。
自分には歩むべき道があるのだ。
そう言い聞かせるように、再び山を登った。
弘海は修行を続けた。
羽黒の山を歩き、さらに深い山へ分け入った。
月山へ。
そして、湯殿山へ。
険しい山々に身を置き、滝に打たれ、雪の中で坐し、何度も自らの心と向き合った。
やがて人々は、弘海を山に生きる聖者「熊除太子」として仰ぐようになった。
羽黒山。 月山。 湯殿山。
出羽三山は、次第に人々の信仰を集める霊場となっていった。
弘海は人々の尊崇を集めた。

歳月は流れた..
少年だった蜂子は、いつの間にか壮年となった。
ある日。
弘海のもとを、一人の年老いた男が訪れた。
男は、古びた布に包まれたものを両手で抱えていた。
「これを、お渡ししたく参りました。」
弘海は布を受け取った。
「これは…?」
男は答えた。
「東の忍の地で亡くなられたさる女人から託された衣でございます。」
弘海の指が止まった。
「女の名は…?」
男は静かに答えた。
「小手姫、と。」
その瞬間。
弘海の顔から、すべての表情が消えた。
長い沈黙の後、かすかな声が漏れた。
「…母上。」
震える手で、布を開いた。
そこには、一枚の衣があった。

衣は未だ真新しく、糸が一本一本丁寧に織られていた。


弘海は衣を手に取った。
指先が震えた。
その瞬間、幼い日の記憶が、一気に胸へ押し寄せた。
母の手。
母の衣。
母の匂い。
そして、幼い自分を抱いた腕の温もり。
「母上…。」
弘海は衣を胸に抱いた。
涙が落ちた。
一滴。
また一滴。
「なぜ…。」
声にならない。
なぜ母は、都から東の果てまで来たのか。
なぜ自分は帰らなかったのか。
なぜ、あと少し早く知ることができなかったのか。
そして…。
なぜ、母が生きている間に、この衣を受け取れなかったのか。

答えは、どこにもなかった。


ナノバナナ2作画


ただ、母が自分のために織った衣だけが、腕の中にあった。
弘海は、それを抱き締めた。
「母上…。」
何度呼んでも、返事はなかった。

東の忍の山で、母はもう眠っている。


やがて、東の空が白み始めた。
夜明け前だった。
弘海は涙を拭わなかった。
衣を胸に抱いたまま、東の空を見つめた。
その下に、母が眠る山がある。
見えるはずもない。
声が届くはずもない。
それでも弘海は、深く頭を垂れた。
「母上…。」

それだけだった。


長い沈黙の後、弘海は立ち上がった。
そして、母の衣を胸に抱いたまま、再び山へ向かった。
その背中に、朝の光が差し始めていた。
夜は終わろうとしていた。
だが、母と子が再び出会うことのないまま過ぎた歳月だけは、二度と戻らなかった。
忍の山では、今日も風が吹いている。
その風は、北西の山々を越え、出羽の山へ向かう。
まるで、届かなかった母の声を、いつまでも我が子のもとへ運ぶかのように...

…その頃都では、先帝を失い、后と皇子を苦しめた朝廷を覆っている長い闇を晴らす兆しが見え始めていました。
敏達帝の第一皇子・押坂彦人大兄皇子と、逼塞していた中臣氏の当主・可多能祜らが、蘇我氏打倒を準備していたのです。
この物語は、国が夜明けを迎えようとする、その直前の悲劇だったのです。