【起稿2026年9月11日記事】
第二話👇
崇峻帝が崩御されてから、早くも七年の歳月が流れていた。
先帝崩御後、豊御食炊屋姫尊が女帝として即位し、飛鳥の豊浦宮から国を治めておられた。
その宮殿の片隅には、ひっそりと暮らす一人の女がいた。
先帝の后、小手姫である。
名門大伴家の姫として育ち
、先帝に望まれて入宮し、この国の后として皇子と皇女に恵まれて、この上無い幸せに包まれて暮らしていた姿は、もうどこにもなかった。
質素な衣をまとい、朝夕に先帝と夭折した錦手皇女の為の香を焚き、静かに手を合わせる。
そして祈りの最後には、必ず同じ名を口にした。
「蜂子…」
あの夜、血に染まった宮から逃げた我が子。
生きているのか。
死んでしまったのか。
それすら分からない。
それでも小手姫は、蜂子皇子がどこかで生きていると信じていた。
いや、信じようとしていた。
そうでなければ、この七年を生きてくることなどできなかった。
女帝となった豊御食炊屋姫尊は、先帝の后であった小手姫を見捨てなかった。
小手姫が先帝と皇女の菩提を弔うことを望むと、宮の片隅に居場所を与えたのである。
それは慈悲であったのか、罪滅ぼしであったのか。
小手姫には分からなかった。
ただ、ここに居れば、いつか蜂子の便りが届くかもしれない。
その一縷の望みだけを胸に、姫は宮に留まり続けた。
ある日のことだった。
用事で市へ出ていた小手姫の従者が、帰って来るなり、姫の前で声を潜めた。
「姫様…少し、お耳に入れたいことがございます...」
小手姫は、いつものように穏やかな顔をして振り向いた。
「何でしょう?」
「市で、上宮家に仕える者と話す機会がございました。その者が申すには…」
従者は今一度、辺りを見回した。
「豊聡耳皇子が、斑鳩にて…蜂子皇子を匿っておられた事がある。と...」
小手姫の手から、糸巻きが落ちた。
乾いた音が、静かな部屋に響いた。
「...な、何と申しました?」
「蜂子皇子を…豊聡耳皇子が、斑鳩に...」
それ以上、従者は言えなかった。
小手姫は立ち上がった。
胸の奥に閉じ込めていたものが、一気に噴き出した。
「生きて…いたの…?」
姫の頬を、涙が次々と伝った。
「生きていたのね…蜂子…
あぁ...ありがとう...」
先帝と皇女を亡くしていた小手姫にとって、皇子は自らに遺された、最後の微かな希望だったのだ。
その夜、小手姫は眠れなかった。
我が子が生きていた。
その喜びは大きかった。
だが同時に、新たな苦しみが胸を締めつけた。
なぜ便りを寄越さなかったのか。
どこにいるのか。
今も追われているのか。
傷を負ってはいないか。
寒さに震えてはいないか。
母を恨んではいないか。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなった。
しかし翌朝になると、小手姫は何事もなかったように起き上がった。
いつものように香を焚き、先帝の位牌に向かって手を合わせた。
宮の者たちにも、普段と変わらぬ顔を見せた。
ただ一つだけ、心の中に変わったものがあった。
待つ事をやめよう。
自分から、蜂子を探す。
そう決めたのである。
それからしばらくして、隋へ使者を送るための打ち合わせに、豊聡耳皇子が宮へ参内した。
多くの役人や従者が行き交う中、小手姫は遠くから皇子の姿を見ていた。
豊聡耳皇子もまた、姫の視線に気付いていた。
だが、人前では何も語らなかった。
やがて、ほんの僅かな人の途切れが生じた。
その瞬間、豊聡耳皇子は小手姫の側を通り過ぎざま、低い声で囁いた。
「蜂子皇子は…無事です。」
小手姫の胸が...大きく鳴った。
「越の先の…東国におられます。」
それだけだった。
皇子は何事もなかったように歩み去った。
小手姫はその場に立ち尽くした。
東国。
越の先。
それはあまりにも遠い。
しかし、初めて手にした確かな道標であった。
それから半年。
晩夏のある夜。
宮の灯が一つ、また一つと消えていった。
小手姫は粗末な衣に着替えた。
髪をまとめ、身につけていた装飾品をすべて外す。
もはや貴人の姿でさえなかった。
ただの一人の女だった。
その傍らには、大伴家の頃から姫に仕え続けてきた、屈強な従者がいた。
「本当に…お出になるのでございますな?」
「ええ。」
「道は険しく、東国は遠うございます。女人の身では…」
小手姫はきっぱり言った。
「それでも行きます。」
従者は黙った。
姫の眼に、迷いがないことを知ったからである。
「蜂子は、私の子です。」
小手姫は静かに言った。
「母が迎えに行かずして、誰が迎えに行きましょう。」
夜の闇に紛れ、小手姫と従者は宮を抜け出した。
長い旅の始まりであった。

ナノバナナ2作画
その頃、東国の羽黒山では、一人の若者が深い山の中で修行を続けていた。
弘海。
かつて蜂子皇子と呼ばれた男である。
俗世を捨て、名を捨て、過去を捨てようとしていた。
朝は山の霧の中で坐し、昼は険しい山道を歩き、夜は粗末な庵で眠る。
都の争いも、皇族としての身分も、父の死も、すべてを遠い昔のことにしようとしていた。
だが、山の獣が夜中に鳴くたび、弘海の心には一人の女の姿が浮かんだ。
母。
小手姫。
「母上…」
思わず口にしたその言葉を、弘海は慌てて直ぐ打ち消した。
母が自分を案じていることは分かっている。
だからこそ、帰るわけにはいかなかった。
自分が生きていると知られれば、母もまた危険に晒される。
そう思い、弘海は目を閉じた。
「捨てねばならぬ…」
過去を。
血を。
そして、母への想いでさえも。
そうして再び、修行に身を投じた。
しかし、弘海の知らぬところで、その母は、我が子を求めて東へ向かっていた。
小手姫の旅は、容易なものではなかった。
人目を避けるため、東海の道を捨て、目立たぬ山の中の道を選んだ。
草に覆われた道。
岩の多い谷。
急な坂。
日が暮れる頃には、姫の足は腫れ、衣には泥がついていた。
それでも小手姫は歩いた。
一歩、また一歩。
「姫様、今宵はここで休みましょう。」
従者が何度もそう言った。
だが姫は、北の空を見上げるだけだった。
「あの先に、蜂子がいるのでしょうか?」
...従者には答えられなかった。
それでも従者は、黙って姫の荷を背負い直した。
二人の旅を支えたのは、従者だけではなかった。
大伴家と縁の深かった東国の上毛野氏の者たちが、姫の一行を陰ながら助けてくれたのである。
食糧を用意し、宿を手配し、危険な道では先導をつけた。
その助けによって、小手姫は中秋の頃までに、ようやく上毛野の地へ辿り着いた。
長旅の疲れは、隠しようもなかった。
小手姫はしばらく身体を休めた。
しかし、休んでいる間も心は休まらなかった。
「北へ行けば、蜂子の消息があるのでしょうか?」
上毛野の者たちは、東国の各地へ人を遣わした。
そしてある日、北国から戻った一人の男が、奇妙な話を持ち帰った。
「道奥(みちのく)の中ほどにございます。山の中に
、西方の都からやって来た人々が住み着いている、と土地の者たちが申しておりました。」
小手姫の眼が輝いた。
「西方の都から?」
「はい。都の者らしい者たちが、山の奥で暮らしている、と。」
蜂子。
小手姫の胸に、その名が浮かんだ。
確証はない。
ただの噂かもしれない。
それでも、母には十分だった...
「案内してください。」
翌朝、小手姫は再び旅立った。
目的地までは、女人の足なら七日ほどかかるという。
「七日…」
小手姫はそう呟いて、微笑んだ。
「七年待ったのですもの。七日など、短いものです。」
一行は北へ向かった。
しかし、道奥の秋は、都の秋とは違っていた。
山々は急速に色を変え、朝晩の冷え込みは日に日に厳しくなっていった。
そして忍(信夫)の地に入った頃、土地の者から思いもよらぬ知らせを聞いた。
「この先の山には、もう雪が降り始めております」
小手姫は、北の空を見上げた。
薄い雲が山々を覆っている。
このまま進めば、雪に道を閉ざされるかもしれない。
従者も、上毛野の者たちも、これ以上の旅は危険だと諭した。
小手姫は、しばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「この地で年を越しましょう...」
焦りはあった。
一刻でも早く蜂子に会いたい。
だが、母としての執念だけで我が身を危険に晒せば、かえって我が子に会えなくなる。
小手姫は、初めて旅を急ぐことを諦めた。
忍の人々は、遠方から来た小手姫たちを温かく迎えてくれた。
粗末ながらも暖かな家を貸し、食事を分け、冬支度まで手伝ってくれた。
都から来た身分ある女であることなど、誰も知らない。
小手姫も、自ら身分を明かそうとはしなかった。
ただ一人の旅の女として、人々の親切を受けた。
冬の気配が深まるある夕暮れ。
小手姫は村を離れ、小高い山へ登った。
冷たい風が衣の袖を揺らす。
遥か北には、幾重にも連なる山々があった。
その向こうに、我が子がいる。
そう思うだけで、胸が熱くなった。
「蜂子…」
返事はない。
ただ、山々の間を風が吹き抜けていく。
小手姫は涙を拭わなかった。
「母は、来ましたよ。」
誰にも聞こえない声で呟いた。
「あなたがどこにいても、母は必ず探し出します。」
山の向こうでは、もう雪が降っているのだろう。
それでも小手姫の心は、少しも寒くなかった。
七年の歳月を越えて、母の執念はようやく我が子のいる大地へ届こうとしていた。
そしてその頃、羽黒の山中では、弘海が一人、夜空を見上げていた。
遠い北の空から、冷たい風が吹いてくる。
なぜか、その夜だけは胸騒ぎがした。
「…母上?」
口にした瞬間、弘海は目を閉じた。
それが母の声であるはずはない。
そう思いながらも、胸の奥には消す事のできない懐かしい温もりが残っていた。
