【起稿2026年5月27日記事】

「邪馬臺国の謎解き」の
[2/3]は👇


さて最後は難所の、中国史書記述の邪馬臺國及び倭の諸国の比定と「帯方郡~邪馬臺國」の行程を考察をしますが、宗女臺與と同様に国名「邪馬臺」も「壹」を採用すると音韻は「ヤマイツ」又は「ヤマイ」となりますが「臺」なら、「ヤマタイ」、「ヤマダイ」、「ヤマト」(!)となります😉

ところで、「ヤマト(大和)」の語源として、本居宣長らは「山の麓を意味する」という説を唱え、一方ウィキペディア等ネット情報には、「山門(渓谷)を意味する」、「山に囲まれた地域を意味する」という異説が書かれていて、一般にも流布されていますが、いずれも後代に、「ヤマト」という言葉を大和地方の地形から解釈したもので、由来的には疑問を感じます。

「山門」地形の大和川亀の瀬
(JR西日本大和路線「第4大和川橋梁」)
※画像はphotoAC(www.photo-ac.com)より引用しました。

※亀の瀬は、大和盆地と河内平野の間に立ちはだかる生駒山地を貫く大和川の渓谷で、まさに「門」のイメージの地形です。


日本(倭)は弥生時代末期(邪馬臺國の時代)に、統一王権成立前夜として「全国が幾つかのブロックに分かれて競う時代」があったと私は考えていて、私は大胆ですが、邪馬臺國は独立国では無く、有力ブロック高天原勢力(吉備・瀬戸内連合)の海北道中出先機関(霊的支配拠点)であったと比定し、瀬戸内海と玄界灘の中継地点である豊国菟狭(現大分県宇佐市付近)にあったと考えています。
また、「女王国」とは邪馬臺國の霊的(天照大神[太陽神]信仰)統制下にある諸国と考えます。

私の諸国比定は以下の通りです...
帯方郡治=漢陽
(現大韓民国京畿道首爾[ソウル])
↓七千余里(水行南又東)
狗邪韓国=伽耶
(現大韓民国慶尚南道)
↓千余里(一海渡る)
對馬國=対馬(上下)島

対馬の「韓国展望所」
※画像はphotoAC(www.photo-ac.com)より引用しました。

↓千余里(南へ一海渡る)
一大(支)国=壱岐
↓千余里(一海渡る)
末盧国=松浦
(現佐賀県唐津市)
↓東南陸行五百余里
伊都国※9=怡土郡
(現福岡県糸島市)
...ここまでは、多くの説が一致していますが...
私は実は、現在主流では無い、所謂「放射線説」を採用していて、
☆伊都国から東南百里
奴国※10=那珂
(現福岡市)
☆伊都国から東行百里
不彌国※11=穂波
(現福岡県飯塚市)
☆伊都国から南水行二十日
投馬国※12=鞆
(現広島県福山市)

鞆の浦


周防国一之宮「玉祖神社」
※画像はphotoAC(www.photo-ac.com)より引用しました。

☆伊都国から南水行十日・陸行一月
邪馬臺國※13=築紫菟狭

比売大神が降臨したと伝わる御許山の宇佐神宮奥宮「大元神社」
※画像はphotoAC(www.photo-ac.com)より引用しました。

※9伊都国は、前述の卑弥呼を助けた「弟」分で、「倭人伝」に言う「王」や「一大率」に相当する日向三代の宮の所在地で、私は、高天原勢力(吉備・瀬戸内海連合)の北九州統治拠点、半島・大陸との外交拠点だったと比定します。
※10奴国は、元々紀元前~2世紀に栄えた物部氏の北九州の独立国であったのを
、高天原勢力に所属した伊弉諾尊が「禊ぎ」の際に抱き込み、高天原勢力傘下国となったと比定します。
※11不彌国は、響灘・宗像~古遠賀湾~遠賀川地域の支配勢力で、中心地は立岩遺跡郡を比定します。
※12投馬国は、周防佐波・長門阿武を本拠とした西瀬戸内海・日本海沿岸最西端の支配勢力で、「投馬」の語源は、瀬戸内海中部に置かれた窓口拠点の「鞆」(現広島県福山市鞆)とし、投馬国勢力の実体は、周防佐波(現山口県防府市)の「玉祖神社」に祀られる玉祖命(天照大神の「天の岩戸隠れ」の際に「八尺瓊勾玉」製作、瓊瓊杵尊降臨の五伴緒の一柱)を祖とする玉造氏(因みに「玉祖神社」の主祭神は二柱とされます[延喜式神名帳]が、一柱は不詳で、同じく「天の岩戸隠れ」の際に「八咫鏡」を製作した五伴緒、作鏡連の祖で女神の「石凝姥命」を比定する説[Wikipedia]も魅力的ですが、私はもう一柱は、景行帝の西征に登場し、豊前と繋がる女酋「神夏磯媛」ではないかと思っています)の集団と、天孫降臨の先頭役天槵津大来目を祖とし、後に長門阿武の国造、大伴氏配下の軍事氏族となる久米氏の連合勢力ではないかと比定します。
※13邪馬臺國を菟狭とするメリットとして...
①宇佐神宮と大分八幡宮との関連性の古代遡及、宇佐神宮の比売大神と韓嶋氏の海北道中地域接続等を通じ、私が卑弥呼に比定した市杵島姫命と親和性が高い。
②比売大神の降臨伝承のある御許山(神域、宇佐神宮奥宮大元神社鎮座)、菟狭に隣接する三毛を流れる大河山国川と英彦山伝承、との接続が可能。(「ヤマト=山麓」説・「ヤマト=山門(渓谷)」説とも親和性がある)
③古代に、長峡県(ながおあがた、現福岡県行橋市長尾)には周防灘に開けた湾(今井津という港もあり)周防灘渡海の風待ちが出来る環境があった。
...が挙げられます。

○前述の卑弥呼(市杵島姫命)の傍に仕えた「男子」は、天三降命※14又は菟狭津彦命※15と比定します。

※14天三降命は、饒速日命降臨の際の随伴神で、私は、「饒速日命が一旦豊前宇佐に立ち寄った」という伝承(河内「石切剣箭神社」社伝)から、その後河内や大和に伝承の無い天三降命は、この時に菟狭に留まったと考えています。
※15菟狭津彦命は、天三降命の子で、宇佐国造、宇佐神宮社家となる宇佐氏の祖です。
尚神武東征の際に、妹の菟狭津媛命は、磐余彦尊(神武帝)の勅により、中臣氏の祖天種子命に嫁ぎ、子を産み中臣氏の母系の祖となりました。

☆女王国尽きる所(魏略は女王之南)
狗奴国=肥後熊国
(現熊本県球磨郡)
○私はやはり狗奴国の氏族を、熊襲に比定しますが、勢力は肥前、筑後、豊後の一部「土蜘蛛(土豪)」を支配下に置いていたと推定します。(中国の呉と交渉があったと睨んでいます。)

私は、「倭人伝 」の倭国像に関する疑念について前述しましたが、具体的に書くと

、「『倭人伝』の行程に記述される方角や距離は、『魏の国策』の影響により、陳寿ら役人が誇張・調整した可能性が高いと考える」という事です。(特に旅程を南方へ伸ばし、呉を牽制した。)


それに陳寿は情報を、張政ら日本派遣役人と入朝倭人から収集したと思われますが、各史書によると、日本は、奴国が後漢に入朝した1世紀半ばから約150年間、中国と何回か接触した記録があり、中国が何回も半島を圧迫、侵略している事は掴んでいたはずで、友好的笑顔をしてはいても中国に対する警戒をして、安全保障上問題ある情報(例:列島中心の地理・権力構造)を巧妙に秘匿したに違い無いと思います。(私は、張政ら日本派遣役人も、「伊都国[日向三代が支配]に留め置かれ、邪馬臺國には行っていない。」と考えています。

つまり、日本像を歪ませたい魏側とブラックボックスを作り出したい日本側の思惑が一致した結果、実際の地理とはほど遠い記述になったと考えます。