マンザナー、日本人と日系アメリカ人が送られた強制収容所の一つ。(前編) | 4コマ漫画「アメリカは今日もアレだった」

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アメリカ暮らし漫画と昔の日本での愛犬物語です。

夏休みの旅第一日目、北のあの人たちなどをジョークった炭酸飲料のお店からオーウェンズ湖わきを過ぎると、やがてあるのは・・

 

 

 

マンザナー日系人収容所史跡。

第二次世界大戦中、アメリカは敵国である日本人移民や日系アメリカ人の財産と自由を奪い、ここへ送りました。

 

現在はマンザナー国定史跡Manzanar National Historic Siteとして保存、整備されています。

 

駐車場に車を置き、ビジターセンターへ向かいます。

 

灼熱の強風・・・・

 

ビジターセンターの中には展示が。

 

当時の写真です。

最大時で1万46人を収容。

 

こうした収容所はアメリカ合衆国に10か所ありました(下の地図の赤マーク)。

 

↓子供たちは二年間、台所ストーブや浴槽、家族の食卓、プライベートな裏庭を目にすることはなかった。

 

後から思えば「二年間」ですが、ここに暮らす最中はいつ終わるとも知れず、事態がどう悪化するかもわからない日々です・・

 

 

じつは、このビジターセンター兼博物館、当時は学校の体育館でした。

 

卒業式。

 

食堂でのダンス会。

 

この収容所で働く地元のアメリカ人たちからの援助や、交流もありました。

 

 

えっっと・・・・

 

 

ドイツがやった強制収容に比べたらものすごくマシ。

比べる対象が間違ってるけどゲッソリゲッソリゲッソリゲッソリゲッソリ

 

 

有名な写真家、宮武東洋のカメラです。

 

 

お手製のカメラを、収容者仲間の大工さんに作ってもらった弁当箱に見せかけた木箱に隠して写真を撮り、やがて収容所長の許可が下りて公式カメラマンとなりました。

 

 

 

 

 

>宮武は一体何を撮りたかったのだろか。あってはならない歴史を記録しておきたかった、という本人の弁はもちろんその通りだろう。私には、収容所にいた宮武が撮りたかったのは日本人の勤勉さではないかと思えた。<

 

>仕事も遊びも日本人は真剣だ。その勤勉さは決して暗いものではなく、むしろ収容所の空気を明るくし、宮武の写真にもその雰囲気が投影されている。

 

 

 

そんな勤勉で器用な日本人・日系人たちが、収容バラックを少しでも家庭的にと、ふきんや帆布袋や梱包用の木箱などをリユースして作り上げた家具など。

 

 

 

 

 

 

バラックの窓から見えたであろう風景。

 

 

 

この強制収容やそれまでの流れについて、こんなユーチューブ動画を見つけました。

 

この動画のコメント欄にあった参考リンク先

地図で巡る収容所と集合センター マンザナー  日系アメリカ人の歴史ポータル Densho.org

には

 

>1942年春、大統領令

 

>自宅からの立ち退きを命じられた日本人の血を引く人達を収容するため、急遽臨時の“集合センター”を設置

>センターの場所は、競馬場、野外催し物会場、日雇い労務者用キャンプ、放置されていた市民保全部隊のキャンプ、材木処理場、家畜場など

>周囲には有刺鉄線のフェンスが組まれ、武装した軍部警察の見張り

>収容者は、家畜小屋やバラック小屋に

 

>食糧不足と劣悪な衛生状態は日常のこととなり、込み合った環境、見通しのつかない将来、ストレス

 

 

>6カ月の間に、収容者達は集合センターから内陸部の強制収容所に送られていきました。

>10か所の強制収容所が設置されました。その多くは連邦政府管轄の砂漠や湿地帯などの、人里離れて隔離された場所

 

>約12万人を収容するこれらの強制収容所は、居住施設に加え、病院、郵便局、学校、倉庫、事務所、工場を備え、独立したコミュニティーとして設計された

>収容所の周囲には、広大な収容者の耕作用の区画がしかれ、そこに設置された見張り台と有刺鉄線が収容所を包囲

 

 

このように過酷な環境の中でも、勤勉で我慢づよい日本人は

 

>ある程度の自治、スポーツリーグ、催し物などで、どうにか普通に近い生活を打ち立てようと試みます。

 

>しかしながら、監禁生活、単調な日々、厳しい生活環境は、収容所の賛成派と反対派、そして権威を失った一世とアメリカ生まれの二世の子供達との間の緊張感を高めました。いくつかの収容所では争いが暴力行為に発展し、マンザナー収容所では銃殺者がでるまでに至ります。

 

やはりつらい、悲しいよね・・・ショボーンショボーンショボーンショボーン

 

 

 

つらく悲しいといえば、ここで初めて知ってたいへん衝撃的だったのがこちらです。下矢印

 

image

 

黒人奴隷解放運動で労働力不足におちいった南米と、貧しい農村から南米への移民を奨励した日本。

 

こうして送り出された人々が、今度はアメリカの強制収容所へ送られたのです。

それは、アメリカ人兵士捕虜との交換要員として使うため。

 

ウィキペディアには

>日本敗戦後の1945年11月に閉鎖されたが、収容者の大部分は財産を失い帰る家もなかったため、同所への在留を希望した。

 

とありますが・・・・えーん

 

日本から追い出され、南米から送られ、アメリカに強制収容された人々の多くが戦後どうなったのか、書いてありませんでしたゲッソリゲッソリゲッソリゲッソリ

 

 

 

 

このマンザナー強制収容所にいた人々全員のお名前が書かれています。

最後にちらっと見えるテレビニュース画面は

 

https://www.newsweekjapan.jp/nippon/season2/2022/01/369095.php

米政府が過ちを認めたのは44年後のことだ。ロナルド・レーガン大統領は1988年、戦時中の強制収容に対する賠償を承認し、正式に謝罪した。<

 

の映像です。

 

 

ビジターセンター兼博物館の感想ノートに書きたてホヤホヤ、12歳のアメリカ人女子さんの真剣な感想文。

赤ちゃんだった私をつれて訪れた12年前まで、私の両親もマンザナーについて知らなかった。

レーガン大統領は正しかった。

強制収容は本当に間違いだった。

皆がこの事実を知ることを願う。

 

と、書かれています。

 

 

 

収容サイトの模型。

 

 

 

 

厳しい砂漠の中に日本庭園を造った日本人・・・

 

 

 

後編では復元された収容バラックやトイレ、食堂などへ入ります。

 

つづく

 

 

 

 

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