取り戻すべき俳句の「音楽性」 | 五島高資のブログ

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 梅雨明けと共に南風が炎帝を連れてきた。南風と言えば、攝津幸彦の〈南国に死して御恩のみなみかぜ〉と彼の忌日・南風忌を思い出す。今年は彼の十三回忌。一昨年の大南風忌・没後十年の集い、『攝津幸彦選集』、『豈』攝津幸彦特集号刊行に続き、細君の攝津資子による評伝『幸彦幻景』(スタジオエッヂ)が先ごろ上梓された。俳壇では難解派と敬遠されもしたが、死してなお人を惹きつける魅力とは何なのだろう。

 例えば、〈露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな〉という攝津の代表作がある。そこには、客観写生の下、言葉の既成的意味やイメージに終始する近代俳句の在り方への痛烈な批判が覗われる。実はそうした記号化し形骸化した言葉を一旦その出自に帰して再生させる処に攝津の詩境がある。そこは俳句の淵源である古代歌謡において、言と事と琴(音楽性)が一体として未分化な原初的世界に通じるものがある。掲句において、意味的に固定観念を離れた言葉が放埒にならないのは、五七調定型はもちろん、O音とG音による音韻効果によるところが大きい。しかし、近代俳句は、こうした俳句の文学性に不可欠な歌謡性あるいは音楽性を見失って久しい。「現代俳句は文学でありたい」と攝津が嘆いた所以である。

 

  糸電話古人の秋につながりぬ    攝津幸彦

 

 まさに時空を超える波動を介して攝津は真の伝統と結ばれていたのだと思う。

 

  梅ひとつふたあついもうと失ひき     橋本榮治

 

 『放神』(角川書店)からの一句。梅の花からの追憶と現実との相克が童歌のような調べによって詩的昇華されている。あとがきには「多くの俳人たちが、旅によって非日常の景に触れることで自らの創作行為を自覚し、作風をつくりあげてきたあとをここしばらくは追いたい」とあるが、〈さくらさくら来世に会はむ人ひとり〉〈観音に来ててふてふもげぢげぢも〉〈かなかなやよしなしごとに身を入れて〉などにおける優れた音楽性に私は作者の真骨頂を見る。

 

                                           初出 : 朝日新聞「俳句時評」