明治元年の100年後の年、昭和43年、西暦で申し上げると1968年に、僕は生まれたのですが、この半世紀余りを振り返って、「ボタンに類するものを押して、望む結果を得る」ことが、すごい勢いで増え続けてきたなぁと、感じています。
現に、今、僕は、「MacBook Air(11-inch, Mid 2013)」と呼ばれる板状の機器に備えられている沢山のボタンを、ガチャガチャと押すことによって、「自分の頭の中で組み立てた文章を、頭の外に出力し、インターネット上で、多数の人の目に留まり易い位置に掲示する」という結果を、得ています。
この沢山のボタンは、昔ながらの3次元のボタンですが、いつの頃か、画面上に表示される2次元のボタンが登場し、ボタンに類するものを押すことが、加速度的に増えていきました。
「ボタンを押すだけで、望む結果が得られる」ことは、確かに、便利で快適なことです。が、莫大な資本が投入されて、便利さが実現されている場合、その便利さを、熟慮せず無批判に受け入れ、「有って当然」と思ってしまえば、どうなるでしょうか。
その便利さに依存するようになるでしょう。そして、その快適生活を維持するために、社会の大きな流れに疑問を感じることがあっても、常に、その流れに従順にならざるを得なくなるのではないでしょうか。もちろん、「莫大な資本を持つ者達が支配的な立場を有する社会」の大きな流れが、常に良心的であれば、何も問題は無いのですが・・・。
莫大な資本が投入されて、「便利や快適や安全」を餌に、今以上の複雑化が推し進められることにより、益々、社会の大きな流れに従順にならざるを得なくなって、本当に良いのでしょうか。コロナ禍が過ぎ去った後、同じ構図の別の何かが、順繰りに起きてしまうようなことが、もしもあるのなら、縛りは、どんどん、きつくなっていくでしょう。
あと3週間ほどで第26回参院選が公示されることが、予想される中、そのような視点から、各政党、政治団体が公表している政策案を比較してみることも、意義のあることではないでしょうか。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則