韓国併合条約調印の日から109年の日を前に、思うこと | 佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

変わらぬ理念の実現を目指し、しくみを修正する。
実態に合わなくなった諸制度を見直し、日本国を良くすることを目指す、政治ブログです。

 本年の下半期も、はや1か月が過ぎ、8月、葉月。ぼうっとしていたら、ひと月なんて、あっという間に過ぎてしまうので、8月に因むことを、まず先に、書かせていただきます。

 

 若さには、今思えば、こっ恥ずかしいと言うべきか恐ろしいと言うべきか、無鉄砲で、怖いもの知らずな一面もあります。

32年ほど前、どうしても、「産業革命発祥の地がある国、階級意識(class-consciousness)の残る国、女王陛下の国」の都であり、かつては、「『太陽が沈まない帝国』と言われたイギリス帝国(British Empire)」の都であったロンドンを、この目で見てみたくて、往復の格安航空券と旅券と少々のお金を携えてガトウィック空港に降り立ち、入国審査官に「今日泊まるところは、これから電話して探します」と答えたら、立ちどころに別室に連れて行かれ、質問攻めにあいました。

 

 そのイギリス帝国(いわゆる大英帝国)は、どこでもいいから、侵略できそうなところを片っ端から、無鉄砲に侵略して、その版図(はんと)を拡げていったのでしょうか。植民地という語は、元々は、「植民(入植者、settler、colonist)の土地」を指す語ですが、一般的に、特に断りがなければ、「他国に侵略されて従属させられた地域」を指す語として使われていますので、僕も、そのような意味で使います。

イギリス帝国は、その土地を侵略し先住民を従属させ植民地化することが、自国の国益(national interest)の維持増進に繋がるか否かを判断して、植民地を拡げていったのではないでしょうか。

 

 で、ようやく、本題に入って参ります。今年も、あと3週間ほどで、8月22日になります。109年前、1910年の8月22日に、韓国併合ニ関スル条約が、全権委員である寺内正毅と李完用によって記名調印されました。長くなってしまいましたので、以下、結論だけを申し上げて、締めとさせていただきます。

 

 

 

 

日本は、「江戸湾の入り口に大砲を搭載した軍艦でやって来て、大砲を向けて脅しながら交渉を行った」ペリー代将のように、砲艦外交(gunboat diplomacy)を行って、この条約に記名調印した訳では、ありません。

 

金(ゴールド)の採れる日本は、列強から狙われましたが、朝鮮半島に、天然資源が豊富にある訳でもないし、肥沃な大地が広がっている訳でもありません。「半島の気候や地形や植生などが日本と大きく異なるが故に、日本が半島を併合することに、何らかの意義がある」ということも、もちろん、ありません。併合した結果、日本の国益の維持増進に繋がることと言えば、「日露戦争後、ロシア帝国の南下政策という野望を、改めて抑止するのに寄与する」ことだけではないでしょうか。

 

併合後、日本は、近代化の端緒にさえ着いていなかった朝鮮半島、近代的な貨幣経済が浸透していなかった朝鮮半島の近代化を、日本人の税金と日本人の技術を惜しみなく投入して、行いました。日本は、先の大戦後、そのような社会基盤(infrastracture)全てに関する権利も、もちろん、放棄しています(サンフランシスコ条約2条a項)。僕が血筋的に四国の人間だから申し上げる訳ではありませんが、中四国に帝大が設置されることは、結果的になかったのに、京城(現在のソウル)と台北には、帝大が設置され、半島や台湾の志のある方々が高等教育を受ける機会が、確保されていました。

 

かつての半島や台湾は、果たして、「他国に侵略されて従属させられた地域」だったのでしょうか。

 

 

神奈川県横須賀市にて

佐藤 政則

 

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