昨年(2015年)の6月15日は、英国でマグナ・カルタと呼ばれる「文書による取り決め」が制定されてから、ちょうど800年の日だったらしく、英国発のニュースのウェブサイトなどでは、やたらと、"Magna Carta"の文字が躍っていました。
恐らく、英国人にとって、誇らしいことなのでしょう。なので、あまり大きな声では申し上げにくいのですが、「要は、西洋の王様、君主は、全員がそうだとは言わないけれど、強権的、ややもすれば、暴君的だってことでしょ」と、僕は思いました。
2600余年前に、奈良県橿原市にございます畝傍山(うねびやま)の麓で、第一代神武天皇が即位されて以来、我が国においては、武家政治における為政者も含めて、暴君的な為政者は、あまりいなかったのではないでしょうか。もちろん、大量の水を要する稲作が盛んな我が国では、西洋の人々と比べ、共同体(community)における横並び意識が強く、「出る杭は打たれ易い」という事情も、大いに関係していると思いますが・・・。
唐突に、マグナ・カルタを採り上げましたのは、前回の投稿で、"Bill of Rights"(合衆国憲法の修正第1条から修正第10条)という言葉を使ったときに、マグナ・カルタを思い出したからです。"Bill of Rights"には、「権利章典」という訳語が当てられていますが、直訳すれば、「権利の文書」といったところでしょうか。
いくら可愛かったとしても、飼っている動物は、権利の主体にはなれません。自然人、法人という言葉があるように、法の世界において、権利の主体たり得るのは、人のみです。あぁ、それなのに、なぜ、戦後、「人権(human rights)」という言葉が流行ってしまったのでしょう。この言葉が当てられている対象を見てみたら、どう考えても、「個人の権利(individual rights)」のほうが、しっくりくると思います。
「安全保障(security)」という言葉もそうですが、流行りの源は、国連(United Nations)ではないかと、僕は勘ぐっています。今回は、とりとめのない文章で、申し訳ないです。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則