言葉は脳が生み出した記号であり、記号は恣意的にいくらでも生成することが可能なので、全ての言葉が、必ずしも、現実世界の何らかの事象と対をなす関係にあるとは、限りません。つまり、意味がよく分からない言葉や、そもそも、意味がない言葉は、この世に、山ほどございます。
ちょうど1年半前、2013年の正月に、「仲間を見捨て傍観するだけの者には、なりたくない」と題し、集団的自衛権について、書かせていただきましたが、集団的自衛権という言葉は、現実世界のどのような事象を表そうとしているのか、判然としない言葉のうちの一つではないでしょうか。
仲間が攻撃を受け始め、自力で対抗できなかったら、その仲間を見捨てずに、余力がある者が、攻撃を受けている仲間を助けるために、敵と戦う。それが、人の世というものでしょう。家族が、友人が、恋人が、暴漢に殴られているすぐそばで、誰が、「自分が殴られている訳ではない」と言って、大切な人が殴られ終わるまで、傍観しますでしょうか。
1年半前の投稿で、国際連合憲章51条の出だしを引用させていただきました。今、とりあえず、「国際連合憲章」と書きましたが、「Charter of the United Nations」を、日本語に逐語訳すれば、もちろん、「連合国憲章」になります。安全保障理事会の運営状況を見る限り、「United Nations」は、いっそのこと、「戦勝国クラブ」と訳すべきなのではと、僕などは思ってしまいますが、「集団的自衛権(collective self-defence)」という言葉は、そういう国際連合の憲章で、たまたま使用されている言葉に過ぎません。
自分が攻撃を受けたら、自分を防衛するために、自ら敵と戦う。自分が属する集団の仲間が攻撃を受け、自力で対抗できなかったら、仲間を防衛するために、余力がある者が敵と戦う。これは、法令以前の問題であり、この世の不文律であると、僕は思っています。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則