この世には、無邪気、邪気が無い、もしくは、無垢、垢が無い御仁が、思いの外、おられるようです。
人間の創作活動というものは、彫刻家が、何の変哲もない木材や石の塊を、彫って刻んで削って除いていくように、漠然としていたものを、その人なりに限定していく作業だと、僕は思っています。特に、言語、言葉を紡ぐ作業は、概念を限定していく作業そのものではないでしょうか。試みに、下記の一文、日本国憲法9条1項の条文を短く要約した文を、眺めて頂けますでしょうか。
日本国憲法9条1項の要約
日本国民は、戦争は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
日本国民は、何を、永久に放棄するのでしょうか。今一度、読み返して頂けますでしょうか。どういう類いの戦争であっても、戦争という名の付くものであれば、全面的に放棄する。そう、書かれているでしょうか。この一文の文意は、どのように、限定されているでしょうか。
『攻撃されたとき、攻撃されそうなときの戦争については、この条文では、何も申し上げません。しかし、「国際紛争を解決する手段としての戦争を、放棄する」ことは、この条文で、はっきりと申し上げます。』
文意は、このように限定、指定、確定されています。にも関わらず、「日本は、どういう類いの戦争であっても、戦争という名の付くものは全て、放棄した」と、思い込み、さも得意気に、「憲法9条にノーベル平和賞を」と仰る、無邪気で無垢な御仁がおられるそうで、びっくりしました。と、申し上げたいところですが、もう、呆れ返ることにも、慣れっこになってしまったのか、これくらいでは、驚かなくなりました。
千島列島や南樺太で暮らしていた同胞が、どういう状況の中で、どういう思いをして、それらの地を離れたのか、故郷を捨てることを余儀無くされたのか。更に申し上げれば、殺されたのか。無邪気で無垢な御仁は、現世の、苛酷で苛烈な事実について、どのように思われて居られるのでしょうか。
神奈川県鎌倉市にて
佐藤 政則